2011年9月29日木曜日

私の旧知の知り合いに5人ほど、
若い頃からの夢を叶えた人物がいらっしゃる。

その中の一人は世界から認められる作家へと育ち現在も活躍中だ。
昔に彼女の作品を何度も観たが、今の作品でもその作風を何も変えてないように思う。
より完成度が上がり、感情のうねりが研ぎすまされ、迫力がましているが、
当時から凄まじい迫力だったので、
私など凡人にとっては、
その違いを計る事が困難なほどに変わらぬ姿で全世界にデビューしている。
本当に当時の作品とブレることなく存在し、
今の作品を観ても、
「ああ!これは彼女の作品だ」とはっきり解る。

5人の夢を叶えた芸術家、つまり世間に認知していただけた芸術家の特徴は、
一言で言えば、素直な性格と云うところだろうか?

芸術家になるには一度性格が屈折しなくてはならない儀式のような季節があるが、
おそらく、この5人は幼い頃にそれをすませ、
しっかりと正しく自分を愛し、
その歩みを逞しく進めたのだと思う。
5人の作風を思い、
その5人の心根にある作品の主題というものは、
当時から一切変化していないのだ。
美の根幹が世間や風潮に捩じ曲げられずに一環して作品を貫き通している。

私は芸術を志す者なので、
いかに友達が少ないと言えど、
ある程度の芸術家やアーティストを志望した知人がいるのだが、
ここまで一環して通せた芸術家というのは、
やはり珍しいのだ。

今でも頑張り続けている知人達の中で未だ世界に認知されずとも、
立派に活動していらっしゃる方も多くいる。
世間に迎合してでも己や家族の糧を得るために粉骨砕身してデザインする者もいる。
いずれも有名無名を問わず、
他者の幸せの為に、その身を削る立派な人物のように私には見えるのである。

夢を違う夢の形に変化させても夢は夢である。
我々という人というものは、
どこまでも夢だ。
目覚めて夢を夢として観る者であるか?
夢の中を夢と知らず流され翻弄される者であるか?
夢観る者を無心で追う者であるか?
小さな頭蓋骨の中で夢を観る者である。
人類の観た夢の上で暮らす者である。
流されている者に限って「自分は現実を見ている」などと吹聴する、
まったく面白可笑しい人間の精神構造、
西田幾多郎先生の「絶対矛盾自己同一」という言葉が私の中ではしっくりくる。
いったい何者がこの楽しき構造を造りあげたのか?
その造りあげた  ”何者か”  こそが真にアーティストなのではないかと思う。
我々はそのアーティストの、
いとも小さき細胞の切れ端なのではないか?とさえ思えてくる。

私が絵を描く事をやめると決めた日があるのだが、
その日は5人の中の一人の作品を観に行った時であった。
自分の後輩にあたる人物の絵の展覧会に行くと云う事で、
私は多少なめきった態度で現地に向ったのものである。

そしてそこで彼女の作品に出会い愕然としてしまった。
天地が逆になる想いをしたと言っても過剰ではない。
「この絵が存在するなら私は絵を描く必要がない」と直感した。

以来、私の描いた絵とは卒業のために描いた6作品のみである。
気合いも何も入っていないテクニックだけの絵を6点、
テーマが社会風刺であったが、
私なんぞに社会を風刺できる資格など一つもない事を当時から知っていたので、
まるっきり道化だ。
すべての音楽家は道化なわけだから、
それはそれで理にかなっている行為ではあるが、
あの道化は極端すぎたように思っている。
いわば「芸術は爆発だ!」などと奇を衒った発言で小さい子をあやしている稚拙な道化といった所だろうか?
なんとも恥ずかしい作品をつくったと思う。
内なる野生は衣の下にあってこそ人間を人間らしくする。
剥き出しの野生は人々にパワーを与えるという立派な効果があるのだが、
情緒のかける作品に私はどうしても感銘を受けないのだ。
シュールで奇抜な作品も同様に、
作品の元々の現実が素のリアルが拡散されボヤけて見えるので感銘を受けれないのだ。
小さき子や赤ちゃんに憧れる女性にとって、
それらは可愛らしく馴染み易いものであるから、
否定の意味などをこめるつもりはない。

私が愕然とした彼女は卒業してから油絵を止め、
今はイラストレーターとして活躍しているが、
根本にある美はやはりブレていない。

「いつか必ず絵を描きたい」と語っている。
それは老年になってからの事であろうか?
生きている内にまた観たいと願うばかりである。

昨日は5人の中の一人で、
世界とは言わぬまでも日本で、その実力を認められ、
躍進している女性と対談する機会を得た。

彼女は当時から日本画家を志しながらも、
常に新しい物を貪欲に取り入れ続けていたが、
今も変わらず、
その作風に生かし続けている。
本当にブレていないのだ。
「いい作品を創ったから皆ちょっと観てよ」
と他者の幸せを想いながら堅実に謙虚に活動し続けている。

私などのようにブレた人生をおくる者にとって、
流され、翻弄され、自分の欲求にかまけて人生に滑っていた者にとって、
それはどれだけ凄い精神強度であろうか?
自分を捨てながらも自分を見失わない彼女こそ人間だ!と言えるだろう。

彼女と対談して私が強く感じる事は、
彼女は自分を正しく愛している。
それが彼女をあんなにも輝かせているのだ。
と云う事だ。

観たものを素直に受け止め、
率直に話しをしている人物に見えた。
自身を主人公にするのではなく、
そこには彼女の謙虚さと誠実さが滲み出ているように思う。

そんな彼女の前で、
あるミュージシャンが、
「ここではオレが主人公だから!」
などと小さく薄暗いライブハウスのステージ上でほざいていた。

幼さとは本当に痛い。

ミュージシャンの多くをこのように幼くさせたのは、
ミーハーへの迎合が原因ではあるが、
ステージで口を開く者の多くが   ”若い女むけ”  の言葉ばかり吐いているのが、その証拠である。
案外に音楽業界の衰退はこの辺の稚拙な精神構造を元にしているのではないだろうか?
世界にはボブディランもミックジャガーも居るのに、
なぜ無知な輩からRockを取り上げてキチンとした物にならないのだろうか?

それは私を含めて人類全体に分かち合う心が、
まだまだ足りない事の証明であり、
これからの人生に重くのしかかる自分の課題でもある。

「彼女の万分の一でいいから彼に謙虚さをわけてあげれればいいのに」
と私は心の中でつぶやいた。
それは人ごとではないのだ。