「怖いくらい美しい」とか、
「怖いくらいよく解る」とか、
「怖いくらい元気」
なんだろう「怖いくらい」とは?
「恐怖」という感情は基本的に「死」に対する恐怖と「周囲の人間に嫌われるのではないか?」という恐怖。
その2つしか原因がない。
「死」は自然現象であり、
「周囲に嫌われる恐怖」は周囲から刷り込まれた暗示で、
この2つの「恐怖」は土台や足場を持たない「妄想」が出発点であり、
個人の「観念」であると言える。
と云う事は「客観的な事実」ではないということになる。
「怖い」というのは冷静さを欠いた落ち着きのない自分という自分を知る事になる。
それは「自分には理性が足りません」という事になる。
本当に怖いのは自分が世界にある「善」を認識できず、
心が「悪」に染まりきって悪の行為に向う事だと思う。
それは誰とも心を繋ぐことができなくなる事だ。
「美」と「善」と「知」の逆を向いてしまう事が恐怖なのだ。
私は美しいものを怖いと感じたことはない。
理解できる事を怖いと感じたこともない。
元気が怖いなんて驚きだ。
むしろ、それらは明るくなる事で恐怖とは全く逆の感覚を私は感じる。
だから「怖いくらい美しい」が私にはどうにも理解できない。
「理解できない」「解らない」と云うことは「愛していない」と云う事だ。
「解りません」と言って相手やその場から逃げる行為だ。
解るためには向き合わなくてはならない。
「それはどういう物ですか?」と解るまで素直になって問い続けなくてはならない。
まあ考えても解らないので調べてみた。
すると
「怖いくらい」の意味は、
どうも日本語の俗語のようだ。
最近よく聞いたり自分でもつい使ってしまう「やばい」とか「やべー」とかと同じような意味らしい。
「やっべーかっけー」 意味;「ああっ!括弧良い」
これは助動詞の「やばい」が感嘆詞として機能している。
「このパスタやばくない?」 意味;「このパスタの美味しさに驚きませんか?」
「やばい。やばい。」 意味;「そうね驚きだわ」
これは「予測に反して衝撃を受けてしまった」「衝撃を受けるほど素晴らしい」という意味で使われているために、やはり感嘆している様子を示している。
若者風の「くだけた」はやり言葉で、
「やばい」というネガティブな形容詞が肯定する意味で使われている。
驚きの表現の最上級といったところだろうか?
「怖いくらいに」という言葉もネガティブなので「やばい」と似たような経緯で使われているのだろう。
「美し過ぎて怖くなる」というのは「あまりの美しさに言葉を失う」ような状態なのだと推測される。
今まで気付かなかった事に気付き驚きのあまり発した言葉であろう。
「怖いくらい美しい」は「驚くほど美しい」
「怖いくらい理解できる」は「驚くほど理解できる」
「怖いくらい元気」は「驚くほど元気」
なのではないだろうか?
「怖いくらい」を使う人は驚いている。
自分の認識不足によって予測できなかった事態に感動しているという事なのではないだろうか?
認識できなかった事態を認識し肯定し受け入れました。という事を伝えたいのではないだろうか?
以上の事をインターネットで調べて推測してみた。
まあ私のごとき宇宙から見て塵にも等しい小さき脳みそが導き出した推測なのだが、
ニュアンスとしては大まかに合っているのではないだろうか?
元が暗い表現なので感嘆して絶賛している様子が相手に正確に伝わっているか?は疑問である。
そこには単に慌てている人間像が浮かび上がる。
ところで、
言葉には言霊というのがあり、
自ら発した言葉は自分に突き刺さり心をデザインしてゆき、
心は環境をデザインしていきます。
ついつい使ってしまう言葉にふんだんにネガティブな言葉が入っていると気付いてしまい。
今日は自分自身に愕然としました。
反省してもっと言葉を丁寧に選ぼうと固く決意しました。
心に「やばい」という言葉が浮かぶ時は自分が慌てているのだと云う事を知りました。
「やばい」と浮かべば「落ち着け」と自分に言い聞かせなくては、
ゆっくり丁寧に落ち着いて世界を観れば怖いものなど何もないのだから。
愚かな風が唇の前で吹いている。