2011年9月29日木曜日

私の旧知の知り合いに5人ほど、
若い頃からの夢を叶えた人物がいらっしゃる。

その中の一人は世界から認められる作家へと育ち現在も活躍中だ。
昔に彼女の作品を何度も観たが、今の作品でもその作風を何も変えてないように思う。
より完成度が上がり、感情のうねりが研ぎすまされ、迫力がましているが、
当時から凄まじい迫力だったので、
私など凡人にとっては、
その違いを計る事が困難なほどに変わらぬ姿で全世界にデビューしている。
本当に当時の作品とブレることなく存在し、
今の作品を観ても、
「ああ!これは彼女の作品だ」とはっきり解る。

5人の夢を叶えた芸術家、つまり世間に認知していただけた芸術家の特徴は、
一言で言えば、素直な性格と云うところだろうか?

芸術家になるには一度性格が屈折しなくてはならない儀式のような季節があるが、
おそらく、この5人は幼い頃にそれをすませ、
しっかりと正しく自分を愛し、
その歩みを逞しく進めたのだと思う。
5人の作風を思い、
その5人の心根にある作品の主題というものは、
当時から一切変化していないのだ。
美の根幹が世間や風潮に捩じ曲げられずに一環して作品を貫き通している。

私は芸術を志す者なので、
いかに友達が少ないと言えど、
ある程度の芸術家やアーティストを志望した知人がいるのだが、
ここまで一環して通せた芸術家というのは、
やはり珍しいのだ。

今でも頑張り続けている知人達の中で未だ世界に認知されずとも、
立派に活動していらっしゃる方も多くいる。
世間に迎合してでも己や家族の糧を得るために粉骨砕身してデザインする者もいる。
いずれも有名無名を問わず、
他者の幸せの為に、その身を削る立派な人物のように私には見えるのである。

夢を違う夢の形に変化させても夢は夢である。
我々という人というものは、
どこまでも夢だ。
目覚めて夢を夢として観る者であるか?
夢の中を夢と知らず流され翻弄される者であるか?
夢観る者を無心で追う者であるか?
小さな頭蓋骨の中で夢を観る者である。
人類の観た夢の上で暮らす者である。
流されている者に限って「自分は現実を見ている」などと吹聴する、
まったく面白可笑しい人間の精神構造、
西田幾多郎先生の「絶対矛盾自己同一」という言葉が私の中ではしっくりくる。
いったい何者がこの楽しき構造を造りあげたのか?
その造りあげた  ”何者か”  こそが真にアーティストなのではないかと思う。
我々はそのアーティストの、
いとも小さき細胞の切れ端なのではないか?とさえ思えてくる。

私が絵を描く事をやめると決めた日があるのだが、
その日は5人の中の一人の作品を観に行った時であった。
自分の後輩にあたる人物の絵の展覧会に行くと云う事で、
私は多少なめきった態度で現地に向ったのものである。

そしてそこで彼女の作品に出会い愕然としてしまった。
天地が逆になる想いをしたと言っても過剰ではない。
「この絵が存在するなら私は絵を描く必要がない」と直感した。

以来、私の描いた絵とは卒業のために描いた6作品のみである。
気合いも何も入っていないテクニックだけの絵を6点、
テーマが社会風刺であったが、
私なんぞに社会を風刺できる資格など一つもない事を当時から知っていたので、
まるっきり道化だ。
すべての音楽家は道化なわけだから、
それはそれで理にかなっている行為ではあるが、
あの道化は極端すぎたように思っている。
いわば「芸術は爆発だ!」などと奇を衒った発言で小さい子をあやしている稚拙な道化といった所だろうか?
なんとも恥ずかしい作品をつくったと思う。
内なる野生は衣の下にあってこそ人間を人間らしくする。
剥き出しの野生は人々にパワーを与えるという立派な効果があるのだが、
情緒のかける作品に私はどうしても感銘を受けないのだ。
シュールで奇抜な作品も同様に、
作品の元々の現実が素のリアルが拡散されボヤけて見えるので感銘を受けれないのだ。
小さき子や赤ちゃんに憧れる女性にとって、
それらは可愛らしく馴染み易いものであるから、
否定の意味などをこめるつもりはない。

私が愕然とした彼女は卒業してから油絵を止め、
今はイラストレーターとして活躍しているが、
根本にある美はやはりブレていない。

「いつか必ず絵を描きたい」と語っている。
それは老年になってからの事であろうか?
生きている内にまた観たいと願うばかりである。

昨日は5人の中の一人で、
世界とは言わぬまでも日本で、その実力を認められ、
躍進している女性と対談する機会を得た。

彼女は当時から日本画家を志しながらも、
常に新しい物を貪欲に取り入れ続けていたが、
今も変わらず、
その作風に生かし続けている。
本当にブレていないのだ。
「いい作品を創ったから皆ちょっと観てよ」
と他者の幸せを想いながら堅実に謙虚に活動し続けている。

私などのようにブレた人生をおくる者にとって、
流され、翻弄され、自分の欲求にかまけて人生に滑っていた者にとって、
それはどれだけ凄い精神強度であろうか?
自分を捨てながらも自分を見失わない彼女こそ人間だ!と言えるだろう。

彼女と対談して私が強く感じる事は、
彼女は自分を正しく愛している。
それが彼女をあんなにも輝かせているのだ。
と云う事だ。

観たものを素直に受け止め、
率直に話しをしている人物に見えた。
自身を主人公にするのではなく、
そこには彼女の謙虚さと誠実さが滲み出ているように思う。

そんな彼女の前で、
あるミュージシャンが、
「ここではオレが主人公だから!」
などと小さく薄暗いライブハウスのステージ上でほざいていた。

幼さとは本当に痛い。

ミュージシャンの多くをこのように幼くさせたのは、
ミーハーへの迎合が原因ではあるが、
ステージで口を開く者の多くが   ”若い女むけ”  の言葉ばかり吐いているのが、その証拠である。
案外に音楽業界の衰退はこの辺の稚拙な精神構造を元にしているのではないだろうか?
世界にはボブディランもミックジャガーも居るのに、
なぜ無知な輩からRockを取り上げてキチンとした物にならないのだろうか?

それは私を含めて人類全体に分かち合う心が、
まだまだ足りない事の証明であり、
これからの人生に重くのしかかる自分の課題でもある。

「彼女の万分の一でいいから彼に謙虚さをわけてあげれればいいのに」
と私は心の中でつぶやいた。
それは人ごとではないのだ。

2011年9月27日火曜日

フィンガーピッキング

最近フィンガーピッキングで奇麗な音を出したくて、
(フィンガーピッキングとはギターをピックではなく指で奏でる演奏法です。)
右手の爪だけ伸ばしてます。
私は新陳代謝が非常に活発なようで、
この伸ばした爪に垢がすぐに溜まって、
不潔です。
気付いたら手入れをするのですが、
人前で手入れするのも、あまり見栄えのいい行為ではないので、
出先で人に会う時は右手を握りしめてしまいます。
爪垢なんて見られたくないです。
隠しても注意力のある方の目には本当に不潔に映ってしまう事でしょう。
長い事深爪で暮らして来たので、
こんな悩みは新鮮です。

私などは元来適当な見方をしてしまうので他人の爪などを気にした事はないのですが。
性格が適当でなくては、あんなにチューニングがずれる楽器、
どこを押さえてもどんな音階でもでてしまう、音と音の間が連続している楽器を弾く気にはなれないのです。
適当で繊細な楽器。ギター。

しかし伸ばそうと思って日々、自分の爪を観察をしてみると、
小さな頃にアサガオの成長日記をつけていた気分に似て、
自分の爪を可愛らしく感じ、
楽しくもある今日このごろです。

明日は池袋でライブ!
バンドをやめて一人になってから何年が過ぎたのでしょう?
妻と別れて一人なのだと知ってから何年が過ぎたのでしょう?
最近やっとライブが楽しくなってきました。
呼吸ができるようになったというか?

このblogに訪れてくださる方、
ときどき読んでますよ。と声をかけてくださる方々。
たまの寂しい夜にこっそり読んでいただいている方々。
本当にありがとうございます。
このblogをやめてしまおう。と思ってずっーとサボっていた時期がありました。
私自身が悲しさの中に溺れてしまっていましたので、
自分の寂しさにしがみついていましたので、
一文字も日常になにかを記し刻む事ができなかったのです。
しかし、よくライブに足を運んでくださる心ある方に、
「是非更新してください。何でもいいんです今日どこどこに行った。とかで」
という暖かい言葉をいただき、
少し勇気を出して続けてきました。
なにしろ特筆できるような派手で皆さまの興味をひけるような日常など私は過ごしていないのです。
その後も今年の誕生日に更新してから何ヶ月か記事を書く事をためらってしまいました。
たいして書き記すような出来事もなく世に潜伏して生きておりました。
陸の孤島で独り、自分の孤独を見つめていました。
ただ沈む事をだらしなく思い、這い上がる手段を模索しておりました。
今は遠く離れてしまった友人に
「お前なんで更新せーへんねん!?」と叱咤激励を受け。
再び更新をしている日々です。
せめて生きている事だけでも伝えたいと存じます。
私はあなたを愛しているという気持ちを伝えるために、
ない愛を絞り出し、ない勇気を振り絞り、
けっして自慢できるような事は私の人生にはありませんが、
この行為を流れゆく日々に刻もうと思います。

あなたの好きなものは何ですか?
私はあなたの好きなものを知りたいです。
わかり合う事が難しく、コミュニケーションが不可能だとしても、
人の中に共感や共鳴が確かに存在し、
その共感こそが人間を人間らしくしているのだと感じ、
世界は美しいと感じます。

2011年9月26日月曜日

大人と子供

人はいつ大人になるのか?
アダルトチルドレンという言葉をご存知でしょうか?
小さな頃に愛された経験のない子は心の年齢がストップしてしまうそうです。
心理学の話しですから私は、
これは女性の不安を掻き回して出口を塞いでるんだなーと感じますが。
夢占いとかも本質はそうだと思います。
人間の中の不安を煽って掻き回し個人の自由を奪っています。
なぜならトラウマと呼ばれる物自体が現実には存在しない妄想の中の幻想だからです。
人は今しか生きられない。
心理学の中には不安を掻き立てる文章と下品な表現がふんだんに使用されています。
下品さは幼さです。
ウィドゲンシュタインの思想には出口があります。
それは彼が現実と真実を相手にしているからです。
上品さと明るさがあるのです。
彼は大人だといえます。
どうすれば大人になれるのか?
それは納得する事でしょう。
それは納得し素直に世界と向き合うようになる事でしょう。
納得できるところまでやりきった人が大人になります。
納得できるまで調べ、
納得できるまで憎み、
納得できるまで妬み、
納得できるまで夢をみて、
納得できるまで腹を満たし、
納得できるまで腹を減らし、
納得できるまで漫画をよみ、
納得できるまでニュースをみて、
納得できるまで怒り、
納得できるまで絵を描く、
納得できるまで自己を通す、
納得できるまで放蕩する、
納得できるまで復讐する、
なんでも結構です。
その間に空虚な時間が流れ、人生の密度が薄くなります。
しかし子供は納得するまでやめれないのです。
そうして世界を知っていきます。
自分が宇宙から見てどれほど小さき者かを知ります。
世界に貢献しなければ生きれない事を知ります。
それから自分の犯した罪に気付きます。
罪に気付けば、あらゆるものに気付きます。
そして許しを乞うのです。
「私が間違っていました。私が悪かったです。」と祈りを捧げます。
全てが自分の責任なのだと気付きます。
気付いても自分の力でどうしようもない事が山ほどあります。
力は支配欲です。
支配欲を捨て、
いや捨てることは不可能ですね?
だから大人は感情を内部処理するのです。

ここまで書くと私を大人なのではないか?
と思う方もいらっしゃるでしょうが、
自分の都合で解釈するのは早計です。
この世界にあるものの全ては自分の物ではない事を知って下さい。
あなたの物はあなたの中にある光だけです。
どうか瞳の霧を晴らし自分の光を当てて世界に気付き他者に気付いて下さい。
落ち着いて下さい。
あなたが光なのです。
光を当てなければ塵すら見えません。

「他人の目の塵が見えるのに、どうして自分の目の中の丸太が見えないのか?」

とは世界一有名な人物の言葉です。
我々はこの言葉を胸に深く刻み自戒しなくてはなりません。

私はミュージシャンです。
しかも比較論のない世界で世界一のミュージシャンを目指しています。
夢を追う者であります。
神を殺し仏を殴ってでも己の志を通そうとしています。
実際に私は家族を捨てるという愚行を犯しています。
家族を泣かせ、友達を怒らせ、母を泣かせています。
なんという人非人でしょうか。
家族の笑顔より大切なものがこの世にあるでしょうか?
私はそれにすら気付かない愚か者なのです。
ですから私とは納得がいっていない人なのです。

私は皆さまに頭を下げ許しを乞う事しかできない、
汚れた人間です。
いえ人間であるかも疑わしい存在です。
どうか存在の命の切なさに免じて、
愚かな私をお許しください。

大人と子供の区別がつけば、
今この国がいかに稚拙であるかを知る事になります。

あと少しだけ一生懸命に頑張ります。
いえ頑張らさせて下さい。

明日は代々木でライブです。

2011年9月24日土曜日

過去の話

未来の話

すっぽ抜けている今

過去に生きる事はできない

未来に生きる事はできない

それでも

過去の話

未来の話

電車にのる

目的地に想いをはせる

歩く走る

目的地にむかって

飛ばしてしまう景色

奇跡にあふれた日常

スピードを上げて見失う奇跡

今ここにしかない

今ここにしかないものしかない

こんなにも美しい世界

妄想の幻想の中にいては

なにも認識できない

現実を認識できない

進もうとすれば

もうすでに進んでいた

愛以外のすべてのものは

かりそめ

便利のためのかりそめ

考えなくても

すでに考えていた

恋をすまいと決めても

すでに恋に落ちていた

すべては

すでに始まっていた

真実は前進している

夢の時間はおしまい

目覚めよう

今を生きよう

今にしか生きれない

なんどでもいおう

りかいできるまでいおう

いつか

わかる

とか

いつか

ひかりがさす

とか

そんな事はない

いつでも気付く事ができる

いつでも世界は光に満ちている

あなたと共に生きたい

だから

なんどでも言おう

世界は光に満ちている

なんどでも言おう

生命(いのち)は光

かりそめが在るから生きているのではなく

光があるから生きている

愛があるから生きている

旅の目的は仮定を楽しむことだ。

今を楽しむことだ。

だから私は切実におもう

あなたの顔を忘れたくないと

あなたの景色を忘れたくないと

切実におもう

ゲーテ

人間が本当に悪くなると、
人を傷つけて喜ぶこと意外に興味を持たなくなる。
(「格言と反省から」)

ほんとうに、そうですね。
と思う。
小さなころ好きな女の子に悪戯をした。
あの幼さ、
自分の醜さ、

ゲーテは私に光をあててくださる。

2011年9月23日金曜日

台風一過


昨日の台風の影響で
今日のライブハウスでは大変なトラブルが起きていました。
電気の配線に雨水が入りこみ、
まったく電気が使えない状態。
朝一番にライブハウスから連絡を受け、
「最悪、公演の中止をするかもしれません。」
との事、
冗談じゃない、なにがなんでもやってやる。
と内心思いながら、
ライブハウスに向うと、

会場が真っ暗。

そこで電気工の方々とライブハウススタッフの方々が、
一生懸命に復旧に励んでいらっしゃいました。

まさに暗闇の中で足掻いていらっしゃいました。

冗談じゃない、なにがなんでもやってやる。
と思っているのは私だけではなかったのです。
そこに居る全員が見えない未来に向って全力で向っていました。

スタッフの方に声をかけると、
暗闇の中に笑顔を浮かべながら、
「みかんさんの言葉はいつも優しいですね」
と言われました。
冗談じゃない優しいのはあなたですから。
暗闇で一生懸命に、今居る自分の場所を支えている。
支えようと踏ん張っている、あなたこそが優しい人なのです。

開場の10分前にようやく復旧の報告が入り、
ライブハウス内が一気に明るくなり、
スピーカーのテストが始まりました。
電気工の方達がそれを真剣な目で見守ります。
大音量がホール内に響き渡り。
その音を聴きながら安堵の表情を薄く浮かべる電気工の方々、
男の顔です。

それから静かに開場に背を向ける電気工の方々、
男の背中です。

工事の経緯を聞くと、かなり大変な作業だった様子。
しかし大変さや、しんどさを微塵にも他者に感じさせない表情。
プロの表情です。

開場寸前に、
ライブハウスのマネージャーが、
「やーライブができるって幸せ」
と満面の笑顔で私に言いました。
仕事を愛している男の顔でした。

近所のライブハウス、
つまりライバル店の方が
「これは復旧のお祝いです」
と差し入れを運んできました。



私はミュージシャンです、
だから本来舞台裏の事を話すのはタブーなのです。
今日だけは特別。

そう特別な日でした。

帰宅すると昨日剥がれていたアパートの外壁が何事もなかったかのように奇麗に修復されていました。

2011年9月22日木曜日

愚かな風が唇の前で吹いている。


最近耳にした言葉で、

「怖いくらい美しい」とか、
「怖いくらいよく解る」とか、
「怖いくらい元気」

なんだろう「怖いくらい」とは?

「恐怖」という感情は基本的に「死」に対する恐怖と「周囲の人間に嫌われるのではないか?」という恐怖。
その2つしか原因がない。
「死」は自然現象であり、
「周囲に嫌われる恐怖」は周囲から刷り込まれた暗示で、
この2つの「恐怖」は土台や足場を持たない「妄想」が出発点であり、
個人の「観念」であると言える。
と云う事は「客観的な事実」ではないということになる。
「怖い」というのは冷静さを欠いた落ち着きのない自分という自分を知る事になる。
それは「自分には理性が足りません」という事になる。

本当に怖いのは自分が世界にある「善」を認識できず、
心が「悪」に染まりきって悪の行為に向う事だと思う。
それは誰とも心を繋ぐことができなくなる事だ。
「美」と「善」と「知」の逆を向いてしまう事が恐怖なのだ。

私は美しいものを怖いと感じたことはない。
理解できる事を怖いと感じたこともない。
元気が怖いなんて驚きだ。
むしろ、それらは明るくなる事で恐怖とは全く逆の感覚を私は感じる。

だから「怖いくらい美しい」が私にはどうにも理解できない。

「理解できない」「解らない」と云うことは「愛していない」と云う事だ。
「解りません」と言って相手やその場から逃げる行為だ。
解るためには向き合わなくてはならない。
「それはどういう物ですか?」と解るまで素直になって問い続けなくてはならない。
まあ考えても解らないので調べてみた。

すると

「怖いくらい」の意味は、
どうも日本語の俗語のようだ。
最近よく聞いたり自分でもつい使ってしまう「やばい」とか「やべー」とかと同じような意味らしい。

「やっべーかっけー」 意味;「ああっ!括弧良い」
これは助動詞の「やばい」が感嘆詞として機能している。

「このパスタやばくない?」 意味;「このパスタの美味しさに驚きませんか?」
「やばい。やばい。」 意味;「そうね驚きだわ」
これは「予測に反して衝撃を受けてしまった」「衝撃を受けるほど素晴らしい」という意味で使われているために、やはり感嘆している様子を示している。


若者風の「くだけた」はやり言葉で、
「やばい」というネガティブな形容詞が肯定する意味で使われている。
驚きの表現の最上級といったところだろうか?
「怖いくらいに」という言葉もネガティブなので「やばい」と似たような経緯で使われているのだろう。
「美し過ぎて怖くなる」というのは「あまりの美しさに言葉を失う」ような状態なのだと推測される。
今まで気付かなかった事に気付き驚きのあまり発した言葉であろう。
「怖いくらい美しい」は「驚くほど美しい」
「怖いくらい理解できる」は「驚くほど理解できる」
「怖いくらい元気」は「驚くほど元気」
なのではないだろうか?
「怖いくらい」を使う人は驚いている。
自分の認識不足によって予測できなかった事態に感動しているという事なのではないだろうか?
認識できなかった事態を認識し肯定し受け入れました。という事を伝えたいのではないだろうか?
以上の事をインターネットで調べて推測してみた。
まあ私のごとき宇宙から見て塵にも等しい小さき脳みそが導き出した推測なのだが、
ニュアンスとしては大まかに合っているのではないだろうか?
元が暗い表現なので感嘆して絶賛している様子が相手に正確に伝わっているか?は疑問である。
そこには単に慌てている人間像が浮かび上がる。

ところで、

言葉には言霊というのがあり、
自ら発した言葉は自分に突き刺さり心をデザインしてゆき、
心は環境をデザインしていきます。
ついつい使ってしまう言葉にふんだんにネガティブな言葉が入っていると気付いてしまい。
今日は自分自身に愕然としました。

反省してもっと言葉を丁寧に選ぼうと固く決意しました。
心に「やばい」という言葉が浮かぶ時は自分が慌てているのだと云う事を知りました。
「やばい」と浮かべば「落ち着け」と自分に言い聞かせなくては、
ゆっくり丁寧に落ち着いて世界を観れば怖いものなど何もないのだから。

愚かな風が唇の前で吹いている。

2011年9月21日水曜日

台風

東京すごい台風でしたが、
どうやら落ち着いたようです。

通りはビニール傘の死体がたくさん転がって、
消防車のサイレンは鳴り止みません。

うちはボロアパートで、下の階の方の壁のベニア板がはがれてました。

明日は代々木ラボでのライヴ、
がんばります。

ニュース

普段よく目にするニュース、
文章は過剰であり、
読者を引き込むために、
被害者と加害者を極端に別ける。
かと思えば人の命にかかわる情報が不明虜だったり、
有名人がああ言った、こう言った。
言ってもない事を書き上げられても、
読者には何が真実なのかが分らない。
漠然とした不安をあおり、
欲望を刺激する。
つまるところ広告だ。

私たち人類すべてがいやしくて当たり前で、
遺伝子自体が利己的なのだから当たり前で、
たえずあやまちを犯しているのに、
はっきりと彼は被害者で彼は加害者だと言えるのだろうか?
人はみな神の前で罪人だ。
だれもが加害者だ。

ニュースに向って文句がでるのは自分が退屈だからだ。
その退屈が常に犯罪を育て、戦争の火種になる。
協力することを忘れ、
命がいったい何であるかという事が認識できず、
自分を庇うため忙しさを装い真実を隠蔽し暗くなる。

幸せとはどこにある?
かがやきはどこにある?
ぬくもりはどこにある?
果てしなく続いている神と呼ばれる生命(いのち)はどこにある?
それは私のなかだ。

あなたの幸せとはどこにある?
あなたのかがやきはどこにある?
ぬくもりはどこにある?
果てしなく続いている神と呼ばれる生命(いのち)はどこにある?
それはあなたのなかだ。

目に映るものしか、
この世界にはないのか?
目に映らないものは、
美しくないのか?

世界には精神世界(神の世界)と人間界と自然界がある。
それらは常に空間を歪めながら電波している。
人のあやまちは人類すべてのあやまちだ。

夢を見続けるすべての人類、
いいものだけを観ることはできるはずだ。

世界は光に満ちている。

星は光だ。生命は光だ。空気も風も雨もすべて。
我々が観念でつくり上げた時間もなにもかもすべて。
すべては愛だ。

2011年9月19日月曜日

ようやく、
自信作ができた。
38年間、
かかり過ぎだと自分でも思う。

いかに自分が怠け者なのか?よくわかる。
いかに自分の性格が屈折していたかもよくわかる。

世界に気付いてもらえるかどうか?
それは世界に任せようじゃないか。
世界からいただいた物は世界に返す。
詩をみつけるのは、なにも私でなくていい。
私は何も持っていないし、私は何者でもない、私はなんでもない。
だが詩人として立つと決めたからには、
詩人として立つ。

男前が言おうと、不細工が言おうと、賢者が言おうと、子供が言おうと、歌の上手なヤツが言おうと、歌の下手なヤツが言おうと真実は真実だろう。

上手くなんてやるものか、
片腕縛ってやってやる。
奇抜なものなんているものか、
世界に必要なのはリアルだけだ。

いい人なんぞに用はない。
そのぬくもりに用がある。

とこれは詩ではないですよ。
ただの日記ですから。

2011年9月18日日曜日

子供の国

子供しかいない国に、
一人だけ大人がいたら、
その人はとても困ると思うんだ。
困るし、とても悲しい気持ちになる。

傷ついた人ばかりの星に、
健康な人が一人でいたら、
とても困ると思うんだ。
ぬくもりと触れ合いたいのに、
誰とも触れ合えなくて。

酔っぱらいだらけのパーティーで、
しらふの人が一人でいたら、
奇妙な気分を味わうと思うんだ。

そのパーティーの中に、
もう1人しらふの人がいたら、
その2人は掛けがえのない親友になると思うんだ。
その2人を中心に、少しずつ波紋が広がるように、
みんなが酔いから覚めると、
パーティーの中から混沌が消える。

傷だらけの星は、
健康体の人から傷の癒し方を教われば、
その傷が自分の妄想である事を悟れば、
他者との触れ合いに脅える事がなくなる。

子供の国は、
大人から英知を学び、
よく本を読み、
芸術を理解してゆけば、
世界から戦争はなくなり、
みんながただ微笑みあうようになる。

2011年9月17日土曜日

ハッピーバースデイ 3.11

神戸で母親をしている友達から教えていただいた動画です。
ハッピーバースデイ3、11



「女産婦さんがおおいかぶさって、たすけてくれた」
この文章を読んだ瞬間に熱いものが込み上げ涙が止まらなくなりました。


人生は大火事で火事から逃げ惑うだけでも人生は空費されてしまう。
火事にむらがり野次馬になるだけでも空費されてしまう。
大変でない人生などない。
大変でない世の中などない。
人間の世界に救いなどない。

だから愛さねばならぬ。
愛だけが救いだ。

なによりも尊い命。

光と闇

世界は暗闇である。

と同時に

世界は光で満ちあふれている。

光で満ちあふれている事を忘れてしまうのは、

だらしない。

2011年9月16日金曜日

エベレスタ!2

今日、エベレスタのライヴ会場で、
音源配布されてました。
受けとっていただいた方達に感謝しています。

今回の音源、
エベレスタのトコちゃんとホリエ氏と僕の3人で本当に楽しく作ってみました、
そりゃあもうノリノリで作りました。
切ない歌なんだけどね!?
あーしよう こーしよう と3人でその場で息を合わせる。
3人でグルーブする。
なんともいえない一体感、
僕もバンドのメンバーになった気分でした。

きっとレコーディングの腕で選ぶんだったら、
僕なんて選ばないと思うんですよ。
僕より器用で上手なエンジニアなんて星の数ほど多くいると思う。
腕とか技術じゃなくて、
この歌にとって、この曲にとって、
録音をするのは、
どうしても僕でないとダメなんだ。
と僕は強く感じました。

是非エベレスタの会場に足を運んで無料音源「少しずつ」を受け取っていただきたいです。

エベレスタ!

明日、正確にいうと今日は、
エベレスタの音源が配布される日です。
録音してからも何回も聴いてる曲ですが、
とっても良い曲です。

人の手に渡るのが楽しみ。

2011年9月15日木曜日

何よりも尊い命

目の前にある命は、
たったの一回しか生きれない、
尊い命。

私のようなクズがそんな事を言うとおかしいだろうか?

まあなんにしろ、
目の前にある例えば扇風機にしろラーメンにしろ、
これは私よりも世界にとって価値のあるものだ。
目の前にいる人も当然、
私より価値のある存在だ。

私は自分可愛さにかまけて、
そんな簡単な事に気付くのに38年もかかってしまった。

2011年9月14日水曜日

恋人

インターネットの中で、
昔の恋人に会うというのは、
やっぱり凄い世の中になったんだなあ。と思う。
実際に会ったりはしていないけれど、
なんだか本当に一瞬でその時の気持ちを思い出してしまうから、
私はまいってしまう。

過去というのは、
どこまでも私の脳の中で美化されてゆく。

ああ、現実を描写したいと願うのに、
まいってしまう。まいってしまう。

しかしまあ、0と1の有限の世界インターネット。
どこまでも有限。
頭蓋骨の中で整理できないほどは、まいったりはしません。
この帯は人類の帯帯なのでしょう。

色恋沙汰を突き抜け、日本文学を統合した夏目先生を敬愛しつつ。

2011年9月12日月曜日

中秋の名月

中秋の名月という事で、
今日は月見です。

まあ、この中秋の名月という言葉は今日友達のフェイスブックで知ったのですが。
調べてみれば「月」自体が秋を示す季語だそうですね?
どうりで今日の月はとても奇麗で時間を忘れて見蕩れてしまいます。

でまあ、月見団子を作ってみたのですが。。。

「白玉粉」

水をちょっとづつかけて、こねくりまわして

適当です。丸い形にして、沸騰したお湯につけて、浮いてきたらすくいあげて、冷水にさらして、

できあがり。

とっても不細工に出来上がりました。
2皿作って、1皿はいつも弁当とかプリンとかトマトを頂いている、
お隣のお婆さんにお裾分けして来ました。
お裾分けして3分くらいで
「おいしかった!おかわり!」とお婆さんがおっしゃいましたが、
まあ自分の分をあげたら、お月見できないし、
でも欲しいならあげてもいいけど、
とちょっと困っていたら
「冗談よ」
とおっしゃいました。
「今まで食べたどんな団子より、おいしかったわありがとう」
だってさ?
不細工な団子だけど味は大丈夫みたいです。
さすが玉三の白玉粉!

一息ついて箪笥からジンベエ羽織を引っぱり出して着替え、
ベランダに出て、お茶と月見団子で中秋の名月を楽しみました。

月をみていると時がたつのを忘れてしまいます。
ふと幼いころに母と縁側で月見をした頃を思い出しました。
人の記憶とはおかしなものですね?
普段は忘れていた事を月を見ながらポツリポツリと思い出しました。
それがどれも美しい思い出なものですから、
私はすっかりまいってしまいました。


普遍性


優しさとはなにか?
他者に安心を与えるという事。
他者に安心を与える普遍性。
周囲の何者にも影響されないで、そこに存在する事。

夏目漱石は普遍性の事をこう言っている。
「内発的なものには普遍性はなく、普遍性とは外発的なものにある」

宇宙から見て塵のごとき自分に、
何か意味があるだろうか?
何か価値があるだろうか?

自分に意味などはない。
価値などはない。
ゲーテに言わせれば、
自分などと云うものは「お手製の愚か者」だ。

シェイクスピアを私が嫌いな理由は人間の世界に救いがないからだ。
救いは形而上にある。
救いは祈りのなかにある。

世界の中心は人類であり、
世界には、
精神世界や人間界や自然界がある。

それらすべてを永遠に繋げる生命(いのち)を感じたとき、
奇跡を信じ、
すべては愛だと感じる。
すべては全てだ。
永遠も瞬間も永久も全ての内に含まれる。

自分の中に愛がなくとも、絞り出してでも愛を出さねば。
愛はいらない、
なぜなら、そこにあるから。

愛は何者にも影響されず、そこに存在している。

2011年9月7日水曜日

ギターは、昨日できなかった所が今日はできるようになって、
それが楽しい。
本は、読んでも読んでも自分がどのくらい読書力がついたのか?さっぱり解らない。
でも、今まで気がつかなかった物事に、ある日急に気がついたり、
見えなかったものが見えるようになったり、
いつの間にか読めなかった本を読めるようになったりで、
これまた楽しい。

音楽の秋、読書の秋。

今日は隣のお婆さんに梨をいただきました。

2011年9月6日火曜日

音源完成


 8月30日 代々木ラボでライヴ
 8月31日 エベレスタ録音
 9月 2日 代々木ラボでライヴ
 9月 4日 阿佐ヶ谷チェックボードでライヴ
 9月 5日 エベレスタのミックスダウン

という事で音楽づけの日々でした。
昨日のチェックボードのライヴでは、
いつもより演奏時間かなり長めでアンコールまであったので、
なかなかいい音楽活動だったのではないでしょうか?
ギャラも(笑)ありがとうございます。
大事に使います。

で2度目となったエベレスタのレコーディングですが、
あっ!エベレスタは友達のバンドです。
とってもポップで切ないメロディーのいいバンドです。

今回の録音はスタジオのコンデンサーマイクが、めちゃくちゃいい物だったので、
私のようなヘタクソなエンジニアでも素晴らしい音が録れました。
凄いぞコンデンサーマイク!人類の英知。
いいのができたので沢山の人に聴いてほしいです。

音楽は売りたくて始めたんじゃないんですよ。
いい音楽を作りたくて始めて、
でも良い物だったら人が買うはずですよね。
良い物を作るってそういう事ですよね?
もしも良い絵をトイレに描いて、それが水洗でジャーっと流れたら虚しいじゃないですか?
私の音楽はまだ他人にとって良い物ではないのかもしれない。
水洗便所ではなく床の間に飾って頂けるような良い物をめざして頑張ろうと思います。
そして他人を知れるように、そして自分を知れるように。

2011年9月3日土曜日

等価交換

最近、連日のライヴやらレコーディングの手伝いやらで慌ただしい日々を凄していて、日記をつけれませんでした。
そういう時に日記らしい日記が書けそうなものですが、どうにも忙しくて日記を書けないです。

先日、お隣のお婆さんに「明日は火曜日よね?病院に行かなくちゃならないの。」
と聞かれたので、
「明日は金曜日ですよ。」と答えたら、
「そんな筈はないの!明日は火曜日なんだから、火曜日じゃないと病院に行けないじゃない。」
「いや、そんな事をおっしゃっても…。今日は木曜日で燃えるゴミの日、明日は金曜日で資源ゴミの日ですから。」
「嘘よ嘘嘘!やっぱり火曜日じゃないと困る!」
「世界はあなたを中心には回ってないんですよ、明日は金曜日です。」
「あら!あなた良い事を言うわね、ちょっといらっしゃい。」

と悶着があって後に私は彼女の部屋に招き入れていただきました。
部屋の中には彼女の一週間の予定を記したメモ紙が貼付けてあって、そのメモには『9月3日 土曜日 病院 』と記してありました。
「あの…。 病院は土曜日に行くように書いてあるのですが?病院には明後日行けますよ。」
「あら!よかった、なら明日は金曜日なのね?」
「ええ明日は金曜日です。」
「よかった、ありがとう。」
となんとか納得していただいて、その場を去ったのですが。
翌日の9月2日(金)の朝に、私は ドカン! ドカン! と凄い音をたててドアをノックする音を聞き、眠りから覚める事になったのです。
ドアの外で隣のお婆さんが「ちょっと起きて!起きなさいよ!」
と声を張り上げています。

ドアを開けると、

「何が食べたい?」
とお婆さんが聞いてきます。

????なんで?

「いやさっき食べたから、いらないです。」
「嘘、寝てたじゃない?」
「むっ!」
「それじゃあ、あたしは今から、あなたにお弁当を買ってくるから!何でもいいわね!」

どうやら私はお婆さんに曜日を教えたお礼に弁当にありつけたようです。
ありがたい。

と昨日はそんな日でした。
台風の影響か昨夜は風が気持ちよかったです。

ところで、

お礼をする時に、
いい女は「お弁当を買ってあげる」なんて予告はしません。

勝手に弁当を持って来るのが、いい女だと思います。