2011年3月29日火曜日

のっぺらぼう


とても幼い頃に見た夢を私は忘れれない。

仲のいい友達といつものように遊んでいる夢だった。
途中でこれは夢だと気付いた私は、
私という肉体からの乖離を試み、
離脱し、
それに成功した。
そして私は私の顔を見た。
見てみたかったのだ。
自分がどんな顔なのか?

絶叫しながら目を覚ました。
泣いていた。

夢の中の私の顔は『のっぺらぼう』だったのだ。


夢、幻想、パラレールワールド、

私達の住んでいる世界を3次元と呼称し、
漫画や絵本や図面などは2次元と呼ばれている、
数学的な一般の意味での空間らしいが、
はっきり言って私はバカなので詳しい事は解らない。
架空の物語を総じて2次元と呼び、
これは呼んでいるだけだ。
世間一般で理解しやすいように、
共通の言葉でお喋りするために。
他人が3次元を3次元として理解しているかも怪しいのに、
3次元や4次元を相互理解しようなんておかしな話だ。
そんな話をしている私自身ですら空間を正しく認識しているかといえば、
はっきり言って、ちっとも理解していない。
だから騙されてはいけない。
私などに決して騙されてはいけない。

まあ2次元を架空の世界ととらえての話で、
「2次元のキャラクターにしか興味を持たない」と自らを呼称する人物も世の中には居る。
かの言う私も思春期時代はそうだった。
アニメのキャラクターに恋をしていた。
いや本当は、それは偽装で自分の恋を周囲にバラしたくなかったから、
2次元キャラに惚れているフリを続けていたのだが。
今日はその話ではないので、
まあ機会があれば私の恋の話もいつかしよう。

架空のキャラや設定を2次元的と呼称する。
しかし空間を歪めて物体や空間が存在し歪められ、
互いに相対的に影響しあうなら、
2次元と呼ばれる存在も、やはり3次元的な意味合いを持つのではなかろうか?
タンスの上の段を閉めれば、下の段が開いてしまうように、
空間で私達は密接に繋がっている。

私の幻想や妄想や心の声は、
そのほとんどが活字でできている。
これには個人差があって人によっては映像的だったりするらしい。
私の場合は言葉であり声だ。
焦げ臭い匂いなどに、わざわざ色んな擬音めいた声をつける。
それは言葉のアクセントに抑揚を持ったメロディー的である。
誰にも伝わらないであろう擬音が自分の内にあふれる。
それから誰かと共鳴したくて共通の言語を探す。
焦げ臭い匂いは、
パンを焼くような香ばしい匂いなのか?
火事の現場のような嫌悪感あふれる危険性をともなう匂いなのか?
ほんのりと漂う生活の搾りかすのような、新聞紙3枚程度を焦がした匂いなのか?
煙草の煙なのか?
コーヒー豆を炒った時のような匂いか?
そのどれにも該当しない匂い?
該当しない、
目を背けたくなるような匂い。
目を背けて無かった事にしたくなるような匂い。
目を背け問題を先送りにして平静を取り繕い無感情に無表情に、
やり過ごしたくなる匂い。

気持ち悪い匂い。

唐突だが、

いい人と云うのが居る。
誰の前でも臆面なく善行ができる人。
倫理的に申し分のない行動ができる人。
周囲の人に憐憫の情をいだき。
被災にあう人を自らの手で助けようとする人。
その精神は立派なのだ。
立派すぎて誰も悪く言えない。
いい人がいい事をする計算は完璧だ。
周りに有無を言わせはしない。
いい人はいい事をしているので己の行為に罪悪感を持たない。
罪悪感に苛まれ、
夜を眠らず過ごす事はない。
やけ酒でうさを晴らそうとも思わない。
恋に悩んでも失恋をしても3度の食事を平気でとれる。
友達も平気で裏切れる。
心の底で誰にも感謝しない。
口癖は「ありがとう」「ごめんなさい」
これは口癖だ。
ルーティンワーク。
誰かに嫉妬する事もない。
だって自分はいい事をしているのだから。
いや嫉妬を表には出さないのだ。
包み隠す、
無かった事にする。
背を向ける。
今やルサンチマンは現代においてスタンダードだ。
隠した嫉妬は病となって自身の身体を蝕む。
そして、
それを自分を取り巻く環境のせいにする。
そして環境をよくしようと、
またいい事をする。

いい人が自分がいい人だと云う事がバレてしまうと、
大変なリスクがあると云う事を、
いい人は知っているだろうか?

今さら当たり前だが行為にはリスクがあり代償があり罪がある。
生きる事は食す事で命を奪う事だ。

世の中の人は悪い人を気取る。
思春期に悪さを習得する。
悪く見えるように努力する。
線引きをする。
無関心を装う。
壁をつくる。
ちょい悪オヤジなんて言葉も少し昔に流行った。
小悪魔だとか悪女だとか、
悪を気取るのに不自由はない。
本当に悪いヤツでなければ見ようによっては可愛いじゃないか?

いい事をする時は隠れて行う。
バレないように、いい事を行う。
いい人だとバレてはいけない。
バレる訳にはいかない。
いい人だとバレては、
つけ込まれ、詐欺にあい、犯され、担保にされる。
『嫌われ松子の一生』のように、
自分の愛した者に殺される。

それでも愛さずにはやってられないのだから、
なんという不器用だろう?

松子は神だ。

余談だが『嫌われ松子の一生』の映画において、
一番ルックスのいい人物が一番酷い醜い死に方をする。
不格好で醜い死に方をする。
私なら「そんな役やりたくねー」なんて思う役所だ。
しかし目を背ける訳にもいかないだろう。
彼は一番ルックスがいい。
ルックスがいいから、
あの映画ではあの役なのだ。
残念ながら彼の他の作品や活躍を知らない私ではあるが、
他の物語なら、きっといい役を貰えただろう。

まあ松子はいい人などでは決してない。
だって愛そうとしただけなんだから。
いい事なんてしていない。
誰かと居る方が一人で居るよりもマシだと思っただけなんだから。

「生まれて来てごめんなさい」

そんな言葉をいい人が吐くだろうか?
そんな言葉を壁いっぱいに刻むだろうか?
その言葉は自らの肉体を深くエグっている。

いやしかし
いい人は意外にも計算高く日記などに書き留めるかもしれない。
いい人は、
誰よりも偽装の上手いエイリアンだ。

しかし都合のいい人で言えば、
どうだろう?
悪意ある存在から見れば、
利用しやすいと云う点で、
愛したい人もいい人も似たような末路を辿りそうに思うのだが?

いい人で居る事は危険極まりないのだ。

いい人と愛したい人の違いはこうだ。
いい人は誰にでもいい人であり、
同時に誰からもいい人に観られ、
誰か特定の人を愛する事がなければ、
誰か特定の人から愛される事もない。
全ての人に均等にいい事をしようとするから、
全ての人から疎まれる。
誰も愛していない。
誰からも愛されない。
誰とも共に生きない。
誰とも共に死なない。
誰にも共感できない。

そして誰からも愛されたい。

愛する人の事は残念ながら私ごときには語れない、
違いを表明すると言っておいて、
大変失礼な話だが、
愛する人とは松子などのような神のごとき人を言うのだろうとしか、
私には語れない。

いい人は孤独死により近く。
いい人は隣人を殺戮する可能性がより高い。
自分の独善性を証明するための悪事を、
いい人は悪事とは認めない。
倫理感との矛盾は究極解消されず。
自己を苛むのは倫理観との葛藤だが罪悪感という点では、まったく問題がない。
だって社会的にいい人に観られたいのだから、
言い訳を探す方に必死で、
罪になんて目を背けるに決まっている。
社会的な責務で監獄での生活はできても、
監獄生活を自分の受けた災難だと感じるだろう。
あくまでも、
いい人にとって自分とは被害者なのだ。

いい人に罪悪感はない。

ところで、
世界に起きる被災が自分とは無関係だと言えるだろうか?
戦争、飢餓、大地震、強盗、ハイジャック、大恐慌、宇宙探索、遺伝子改造、彗星の激突、引き蘢り、ニート、難民問題
目を背けたくなる事態。
背けても、背けても目の前に現れる現実。

当たり前だが、
アスファルトの上を歩いている。
電気を使っている。
魚を食べている。
調理にガスも使う。
家賃を払う時に紙幣を使い、銀行のATMを利用する。
世界と無関係で居れる筈がない。

戦争がたえない理由なんて、
もう解っているでしょう?

戦争のアニメやゲームがたえない理由も?

いちいち私など小市民以下のバカが語る事でもない。

目を背けても、
妄想の中に逃避しても、
誰の身にでもふりかかる。
避けようのない衝動なのだから。
とある女性が身を売るように?
とある男性は戦争に?
空間が空白を埋めるように。

戦争と自分が無関係なはずがない。

無関係だと言うならば、
どうか私に退屈に耐えれる方法を教えてほしい。

いい人になると云う事は、
目を背ける事なのかもしれない。
自分から目を背ける事かもしれない。
自分の行為に目を背ける事かもしれない。
自分の嫉妬から目を背け。
自分の失恋から目を背け。
自分の死から目を背け。
死から背けば、
生からも目を背け。
確固として、いい人であり続ける。

独善的欺瞞

自分のキャラクターを持たない。
自分のペルソナを持たない。
自分の名前を伏せれば、どんな悪態でもつける、どんな中傷でも吐ける。
自分の顔を持たない。


『のっぺらぼう』


絶叫して目を覚ますなら今なんだな?
と思う今日この頃であった。

ちなみに、
のっぺらぼうの物語。

ムジナが顔のないお面をつけて人間を驚かせただけなんだってさ?

2011年3月28日月曜日

もやし

以前、同じタイトルの日記を書いた記憶がある。
ような
ないような。
内容の無いような内容の日記だったはずだ。
さてと、
私は人の言葉尻を捕まえて駄洒落を言う癖があるのだが、
それを看破される事は少なく、
一人寂しい思いをする事が多い。
いや、しかし人類全体の事を考えれば、
個人個人の希少にして貴重な時間を無駄話で無為に凄す罪悪を回避する上では、
むしろ駄洒落を無視すると云う周囲の行為に正義を越えた神の意思すら感じるのだが。
まあコミニュケーションの一環としてと云うより、趣味?まあ、その辺りの事実は自分でもよく解らないから客観的に勝手に判断してもらってかまわないが、
通常は駄洒落とボケを主軸に、
相手のボケにボケを重ねる事を会話の重点に置く私なのである。
日常風景において突っ込み人口の少ない我が周辺事情でいえば、
私のほしい突っ込みを欲するままに欲しいだけくれる人物とは、
金髪の貴公子サトウタツオただ一人で、
最近彼にはナイトオブゴールドと云う輝かしい愛称が仲間内からつけられたのは記憶に新しい。
私的には彼は聖闘士の中の聖闘士、ゴールド聖闘士、
神に選ばれし聖闘士、
突っ込みチャンピオンのアリエスのムーさながら、
なのである、
本人を前にすると恥ずかしくて、
そう讃えれないのが残念至極である。
いや残念地獄。
さながらハーデス編。
モーターヘッドのナイトオブゴールドを幾人がご存知かは知らないが、
個人的には、かの百式やジオを遙かに上回るハイセンスな機体である事から、
彼の仲間内での評価の高さは尋常ではない事を察していただければありがたい。
話は随分それたが、
つまり駄洒落の話である。
私のボケはナイトオブゴールドによって緩和されているのだが、
駄洒落の方はからっきしである。
砂漠などでは表現できない、ツンドラのごとき生存の許されざる環境に身を置いている自分という儚い存在を痛感せねばなるまい。

そういう訳で、
どうせ何時ものように無視されるであろう駄洒落を、この間も披露していた矢先、
意外にも意外な人物に突っ込まれた。
意外というより不覚である。
本来において突っ込まれる程に露骨な駄洒落を使うなど、
駄洒落使いの私にはあってはならない失態だ。
世界の規律を破綻させかねない不祥事である。
近親相姦がばれたとか、一人こそこそと彼女のパンツを被って変態仮面よろしく!を別れてからカミングアウトしただとか、好きな女の子の縦笛を自らのナニにペトペトとくっつけた。
などと云う不祥事が可愛く思える程の不祥事である。
(ここで注意を挟んでおかねばならない、ここに挙げた例は社会にある事例をピックアップしただけで、決して私自身の変態性を暴露したのではないと云う事を、でなければ私の家族と私がかつて惚れた女性達の名誉をズタボロにしてしまう危険性がある。なにしろ名誉は失うと取り戻せないのだ。ここに取り上げた話はあくまで話を盛り上げる為に私がある人物達から聞いたネタである。だいたい変態行為に及んだ時点で、それは恋などではなく欲望のはけ口で欲情なのではないか?と云うような恋に焦がれる乙女チックな思想を私は私の根本に置いている。私などは小学校の頃に好きな子の縦笛にチューしようかしまいか手にとって悩み、結局は挫けて奇麗に元通りもどした程度だ。当時の学校ではスカート捲りが相当流行っていて、私も漏れずに、その行為に興じてスカートを捲っていたが、ある女の子のスカートだけは、どうしても捲れず、その事で周囲に私の好きな子がバレた思い出は一生大事にしようと思う。以上!注意おわり。)
神話のほとんどは近親相姦であり、
ソクラテスの時代の賢者のほとんどが男性と男性の恋愛であり、
日本の戦国時代の武将などはロリコンでホモだ。
いや!
ロリコンが偽装で、
ホモが真実だ。
なにが武士道だ!笑わせる!!
ああ!いかがわしい事このうえない!
断じて許すまじ。
人はもっと神を敬い畏怖し、
戒律に従わねばならぬ。
罪深き子羊どもめ!
などと私見はともかくとして、
いったい倫理が、どこまで陵辱されれば現代社会は罪と罰を受け入れ更正の道を辿るのだろうか?と云う疑問にもならない疑問もさて置き。
それを置いても人間同士が共感をくり返して正しくなくとも美しくあろうとし、だがあんまり美しくない人間生活に多少の幸せや温もりを感じないではいられず、
やはり人の中の罪の意識が人間同士を結び誰かと深く繋がりたいと感じるならば、
それを、おもむろに否定する気にもなれず、
自らの孤独を人間強度を高める為!などと、
わかりやすくも恥ずかしい、ただ単に人付き合いの下手さの言い訳というよりは、
むしろ一人に慣れているのだ。
慣れていると云うよりも、それが平常であり平穏であり。
いわゆる安穏である。
だからといって寂しくない訳では決してなく。
しかし、どうだろう?自分の寂しさに比べて他者の寂しさと云うのは?
それは計りかねる。
ひょっとすれば、自分よりも他者の方が寂しいかもしれない。
いや自分のせいで寂しい思いをした人が必ず居て。
現在もその人達が寂しき思いをして生きている。
良かれと思ってする事と本当に善き事の差は激しい。
むしろ良かれと思う事自体が欺瞞である。
私ごとき卑小で矮小な存在が思いつきで人に優しい事ができる筈もない。
そんな道理はない。
自己満足よりタチが悪い。
迷惑をかけて、
「いやー良かれと思ってー」などとは、
ただの甘えではないか!
プレゼントをあげたら、こんな物をもらったら物が増えて困ってしまう、帰ったら捨ててしまおう、質に入れてしまおう。と思われても仕方がない、
くらいの気持ちでプレゼントは贈らなくては。
それでもプレゼントを贈らないよりはプレゼントを贈れた方がいいのだから。
そんな風に目の前の事にしかむかえない私は、
いや目の前の事に振り回される私は、実に軽薄で薄い。
などと云う自己否定を表明して自己を保とうとするが、
そもそも自己とはなんだ?と云う鍋に入れても美味しくなさそうな具にもつかない話もさて置き。
もう何の話だったかも、よく解らなくなって来た。
つまり
ある日のある場所で仲間内で集い談笑している最中に、
私はある人物に駄洒落を看破されたのだ。
その看破した女性があまりにも美人で可愛らしい外見だったのだが、
「駄洒落!駄洒落!」と私を指差してフワフワと笑うものだから、
私はまるで浮気がばれた恋人さながらに
「あなた浮気してるんでしょ?」
「いやいやいやいやいや、お前は誤解しているぞ!聖人君主も真っ青とばかりに、竹を割ったような性格の、このオレが浮気などと!そもそも浮気の定義とはなんだ!オレはお前の外の女に触れた事もなければ挨拶以外の会話をした記憶もない!断じてしていない!オレの目を見てくれ!むしろオレの目以外は見ないでくれ!オレを信じれないのか!!!」
「じゃあ隣で寝そべってる、そいつは何なのよ!」
「幻だ!桃源郷だ!人生は夢のごとし!お前は夢を見ているんだよ。そうだ、その悪夢を今すぐ終わらせよう。今日はもうゆっくり休みなさい。お前も疲れているのだろうから、いつも周りに気を使っているお前をよく見ているオレだ。気付かないわけがないだろう、今は昼間だが気にする事はない、家事は全て引き受けよう。いいから寝なさい」
とかいう、やりとり級に
「駄洒落じゃない、駄洒落じゃない」と浮気バレ妄想より遙かに貧困でありていな言い訳にもなっていない薄っぺらな、只の言葉を発する意外のすべのない脆弱な私を私はみた。
所詮は言葉は言葉であり、
言葉は行為や現象を写生したに過ぎず、
悲しいくらいに人間生活と言葉は矛盾する。
とすると私は嘘しかついていない。
それにしても、
人間いざという時には普段無駄に溜め込んだ語彙を失うらしい。
いやこれは言語能力の低い男性ならば特に珍しい事ではない。
非日常のバトルシーンであれだけ饒舌に喋れる聖戦士どもやシロッコ様やバジーナが異常といえば異常なのだ、なんだその面白キャラは!!
男なら悟空を見習え!脇を固める仲間達でさえ説明的なセリフを吐かない潔さ!
必殺技がかめはめ波だと!?
捻くれた自分がとてつもなく薄汚くみえる清さと素直さ。
びっくりする程の一般社会への浸透力!
なんちゅうネーミングだ!
孫悟空にしてもかめはめ波にしても過去の遺物の焼き回しではあるが、
ではあるが
いっそ、そこまで露骨にパクっていると、
なんだかその作者の悪意のなさや屈託のなさに、
幼き少年に対するような慈愛を感じてしまう。
とするとウーロンが猪八戒なのは解るとして、
ヤムチャは沙悟浄なのか?カッパなのか?エロガッパなのか?
なにか?
ブルマは三蔵法師なのか?
いやだなー稀代の聖者をモデルにしたと云われる人物がノーパンでスカートをたくし上げる、読者サービス担当のピチピチギャルになるなんて。

話をもどそう。
まあ私は饒舌な方ではないが、だからといって饒舌な女性が好みと云う訳でもない、
できれば二人の時は静かな方がいい。
それを相手に享受させるつもりはないが、
おしゃべりを楽しむと云うには、あまりにも私は静かさを好む体質なのだ。
気を使ってしゃべると、ほとんどが寒さも感じない自己満足の駄洒落の垂れ流しなのだからロマンスのかけらもない。
奇麗な景色を奇麗なまま気を抜いてながめて、
たまたまそこに、すぐ隣に誰かが居たりして微笑していたら、
まあ、それが私の幸せだと思う。
最早じいさんである。
そこに居続けていただくには、
まあ、それなりの努力は必要ではあるが。
努力とは好かれる為の努力であり、
辛苦をともない継続に力を注ぐ行為ではある。
恋人達よ頑張って!君の目の前の人の笑顔は何にも代え難い宝なのだ。
失ってはならない。
失って気付いても遅い。
失えばきっと私のような、じいさんになる。

自虐ネタは、度を過ぎるとただ痛いだけなので、この辺りが帰り道だろう?
いや、すでに痛いか?
人間の痛覚と云うのは、ある一定を越えれば気持ち良さになると聞いた事があるが、
私には生憎そういった経験がない。
言葉で知っているだけの耳年増だ。

えっと
何の話だったんだろう?
駄洒落ね。
駄洒落、駄洒落と、
もう、すでにお気づきだとは思うが、
私は完全に落とし所を見失っている。
なにしろナイトオブゴールドの不在であるからして、
とりとめようがない。
突っ込みを失ったボケほど痛いものはない。
完全なる自由は完全なる不自由である。
ゴールキーパーの居ないサッカーだ。
サッカーの事はよく知らないが、
キーパーなしじゃあ、きっと・・・どっちらけだろ?
一人でリフティングしてる方がまだマシである。

と云う訳でナイトオブゴールドは同時に若林くんでもある。
時が時ならばゴッドハンドを使えそうな勢いだが、
世代の差なのだ。
あんまり世代間を飛び越えて詳しいと色々あり過ぎて脈絡がぶれるだろ?
ナイトオブゴールドに見える人にはナイトオブゴールドであり、
若林君に見える者には若林くんである。と、
そう云う事にしてくれないか?
まったく大人げない限りで申し訳ない。
ちなみにガンダムならば、あらゆる世代を網羅している私だ。
登場する戦艦を30隻答えよ。と云うテストがあれば余裕でクリアできる自信がある。
主題歌はウイングガンダムのが一番好きだ。
ナイトオブゴールドを越える美しい機体があるとすればクシャトリヤだ。
クイーンマンサの小型化だが
あのフォルムにはウットリさせられる。
ちなみにクイーンマンサはモビルスーツと云うよりはオーラバトラーのようだった。
ハイパーオーラ化したジェリルみたいだ。
べつにオーラバトラーも大好きと言えば大好きだ。多くは語るまい。
ZZを無かった事にはできないのだ。
ロリキャラのあの子がいなければマリーダも存在しない。
都合の悪い自分の過去をなかった事にできないように、
とにかくクシャトリヤはモビールスーツと云う制限で、
しかもジオン軍と云う縛りの中で、
よくぞそこまで育ってくれた。
と私は一人にやけるのだ。
チートなユニコーンにグチャグチャにされたのが惜しいが、
再登場に期待する。

とにかく駄洒落を看破された私は看破した容姿端麗な女性に萌えたわけだ。
生まれて始めて味わった。
これが萌えと云う感情なのか!!?と
個人の琴線に触れる感覚とは人それぞれであり、
それが私の場合は駄洒落を看破され、
ほがらかに笑ってもらえた事だったのだ。
普段、迂闊にも露骨に駄洒落を使ってコミニュケーションを計った際には、
ありきたりには「寒い」の一言か無視で片付けられる事を日常として37年生きてきた私にとって、
その日常を覆すように、
ほがららかに柔らかく上品に笑いながらひとさし指を指される。
などという事態は私の平行感覚をズタズタにし、
ボロボロにし、
くつがえし、
あっさりと
萌えたのである。
恋でもなく、愛でもなく、欲求不満で欲情したでもなく。
萌え狂ったわけである。
萌えと云えば萌えキャラである。
ちなみに私は、漫画なら『幽遊白書』の飛影がダントツで一番好きだ。
女性のキャラで云うなら『功殻機動隊』の素子も捨てがたいが、
やはりここは素直にナウシカのクシャナが好きだ。と言っておこう。
クシャナは映画ではなく漫画で観るべきだ。
小説ならば『コインロッカーベイビーズ』のアネモネが好きだ。
小説の男はしゃべり過ぎるからいかんが、
まあどんな小説でも坂本竜馬が出て来て「〜ぜよ」とおっしゃれば、
私の鼻息は当然のように荒くなる。
映画ならば『レオポルドブルームへの手紙』のレオが最高だ。
女性ならばジュリエットビノシュで、
特に『汚れた血』のアンナは最高だった。
しかし、いかにアンナやクシャナでさえも、
私の駄洒落に反応し、
ほがらかに笑うと云う事は有り得るだろうか?
君とすれ違う時、世界全体とすれ違うだろう。
いつの日か別の日よ。
悲しい悲し過ぎる、やっぱりファンタジーはファンタジーだ。
現実には来ないでくれ。
だいたい、あの手の物語は切ねーんだよ。
ああ本当に好きなのは、ぬけ作先生だ。バカボンのパパなのだ。
それこそ偽善じゃないか、自分の気持ちを偽るなどと奇麗なジャイアンより汚い。

まあ、そんな私の心象風景や妄想はともかくとして時間は流れ場所を移し冷静さと日常をとりもどすと、
いや実際には地震発生以来、通常の生活など取り戻してはいない。
今日も大好きな、もやしを手に入れるのに一苦労した。

ともかく日常風景の中で思い出し苦笑する。
しかし、
あれは何だったのだろう?と、
37歳のおっさんが『萌え』だと???
気持ちが悪い。
現在の若い女性が未だに使っている言葉かどうかは疑問ではあるが、
キモって感じだ。
面と向って言われると少し凹む、その程度。

まあいい
そんな日常的な風景の中で、
もやしの煮浸しを一人で食べている私がいる。
いただいている訳だ。
いただきとは山の頂点だ。
つまり食物連鎖の頂点という訳だ。

朗かに人類の生命保存を目的とした意図で摘み取られた、
摘み取られたと云うよりは、
根こそぎ引き抜かれたであろう。
人為的に発芽させられた一本の新芽を見る。
「もやしって『萌やし』って書くんだよなー」

ごちそうさま。

2011年3月25日金曜日

ファンタジー

たとえば、
悟空がスーパーサイヤ人になる事と、
のび太くんが、通常のアニメのショボさに比べて、
劇場版での、勇敢な振る舞いに変貌をとげる事は、
どちらが依りグレートなのでしょうか?

超神水や千豆、界王拳、元気玉、スーパーサイヤ人、
感情の爆発で大変身。合体までしてしまう。
人間の信じたものは様々な形で世界に具現化するそうですが、
案外そう云うものは、
こういったファンタジーから生まれ育つのかもしれません。
生み出すクリエーターと餌を与えるユーザー、
不思議を信じるという幻から幻への変換。
個人的には、
カッコウが托卵をしているのに似ているように見えるのですが、
どうでしょう?
都市伝説、怪談、小説、ゲーム、まじない、
できそうで出来ない事。
信じる事で見失ってしまう事。
舞台の裏でなにが起ころうと、
舞台の上でしか舞台は演じられない。
舞台の裏は観ないでほしいし、
表であれ裏であれ邪魔をしないでほしい。
情報化で線引きが曖昧になったとしても、
ストーカーという変態行為が流行っても、
下衆は下衆。
線引きのない暮らし、ルールなき世界、関わらなくてよい事に能動的に関りたくなる欲望。
それは進化というより、
むしろ退化。
退化は顔に現れ、
隠しようのない下衆面を舞台に曝す事になります。

自らを律し人事の為に奮い立つと云うのは、
決して簡単な事ではなく。
普段から怠惰で快楽に溺れ、
虚言や悪知恵を働かす人間が、
劇場版で全てを拭い去り友情を深めるとは、
どれだけ過酷なのでしょうか?
信じるとか信じない以前の問題ではないでしょうか?
出来る出来ない以前に何も出来ない人物が
目的を成し遂げる為にやると云う行為。
やると決意する瞬間。
変貌でしょうか?のび太くんはのび太くんのまま。
行為が変わったのではないでしょうか?
快楽に囚われず志に向ったのではないでしょうか?
呑気な学生が社会に出て自分を押し殺し、
人間関係に折り合いをつけ、
生活を正して社会に貢献するように。

ときに、
劇場版のジャイアンのギャップ萌えにかんしては、
あれぞ正しくツンデレなのではないか?
という私見があります。
普段がツンで劇場がデレ。
まあ見た目がああだと
萌えるのは流石にないです。


だが好きにはなる。


ふだん冷たく感じている人に突然優しくされると、、、、
あれ何?ひょっとしてオレ好かれてんの?
的な
ひっかかちまうよそりゃ。
基本オレってバカだし。
的な
真のツンは
ひっかかるようなバカには興味ねーんだよ。
的な

萌えは私の主観的な心の機微で、
もちろんジャイアン萌えの人も大勢いるでしょう。
ジャイアンとスネ夫のBL。
困った事にどちらも美少年ではない。
ガチホモ系なのだろうか?
ジャイアンがデキスギくんを
いや読んでいる人の気分を、これ以上害すのはやめよう。
やめます。

ちなみに
萌えとは隠語です。
だから真面目な方達には用のない言葉でしょう。
私もこの年になって隠語を使うのは若干はずかしくもあるのですが。
まあノリ。
悪ノリともいう。

中年のワルノリ

たちがわるい。

達河 瑠衣という新しい萌えキャラができたらどうしよう?
確実にツンデレだ。
いやデレそうにない。
もう変身とかして真っ黒なキワドいコスでセコい悪巧みをしそうだ。
24歳以降がとっても不安な感じだ。
没だ!没!没キャラ!!!
闇より生まれし者よ闇に帰れ!
ごめんなさい。

あいにく私にはファンタジーの才能は皆無のようです。
アーユーファンタジー?
アーハー
レッツビギン!

簡単に信じてしまっている事、
信じて油断してしまっている事、
案外多いのかもしれません。
人の言葉と書いて信じる。
言葉は言葉。

一見便利そうなドラゴンボールや四次元ポケット、
しかし『猿の手』と同質のものかも?
なーんて思ってしまう事があるんですよ。

『猿の手』もファンタジーですね。
それも信じる人次第なのかな?
人の言葉ですから、
ではでは


2011年3月24日木曜日

アスタラビスタ

今日
相変わらずの余震である。
国内観測史上最大のマグニチュード9.0を記録した、
東日本大震災の予震を僕が感知した日の事は、
記憶に新しく。
僕はその日に東京のボロアパートの一室に居た。
長い予震。
小さな揺れ。
しかし僕の居るボロアパートは、
あまりにもセンシティブな、その予震に反応し、
僕にその天災の兆しを予告する。

今になって思えば毎年毎年屋根裏を昼夜ともなく駆けずり回り、
僕の食料を貪り食う迷惑な同居人、
否、人間ではないので、この場合はどうなのだろう?
同居物?
ともかく数年を共に過ごしていたミッキーマウスとミニーマウスが、
今年の夏あたりから、
いや年をまたいでいるので、去年か。
まあ近頃は、
影も形も見せなくなった理由を知る事になった。
改めて野生動物の勘の鋭さに敬意を表しつつ、
その無事を祈る。

ともかく予震の時点で
僕は暖房器具の電源を落とし、
ガス栓を捻り、
エレキギターを抱えて、
トイレの中に避難した。
最後の瞬間を迎えるのが和式便所の前だとしたら、
サマにならないな。
と思いつつも、
否、
思ったというより、恥ずかしながら声に漏らしていた。
地震は予震を過ぎ大地震となっていた。
しがみついた便器のパイプが
ありえないくらいに軋む。
折れちゃうよ、これマジやばいって。
そこで
これまでの人生をふりかえり、
案外トイレで事切れるくらいのショボさが自分にはお似合いなのではないか?
なんて思ったものである。

あれから
何回も何回も何日も何日も余震を経験している。
最初のうちは柱四つの鉄壁要塞アバオアクー、
和式にしてジオン最後の砦に、
最終兵器であるテレキャスターを抱えて身を隠す僕であったが、
そのうちに、
どうせ死ぬなら天を仰ぎながらさ。
などと格好良さそうで実はチュウニ的な言葉と共に外に飛び出して行くようになった。

しかし
そんな行為にも飽きた。
携帯の緊急速報にも飽きた。
きっと危機管理能力が低いのだ。
慣れというのは恐ろしい。
すっかり慣れて余震が来ても、微動だにしない中年の鈍感な男がそこに、
すっかり出来上がっていた。
なんの魅力もない。
まあいい。

ミッキーとミニーは今ごろどうしているだろうか?
まあ達者で暮らせよ。
ふたりなら楽しくやって行けるさ。
一人より二人、三人目はお邪魔虫。
お前達との静かで賑やかな思い出は悪くないよ。
ビニールの上から齧られた『カツオのふりかけ』は流石に気持ち悪くて捨てたがな。
地震が落ち着いて、穏やかな日常がもどって、
また会えるのを心待ちにする。
迷惑がって悪かったな。
アスタラビスタ!


2011年3月12日土曜日

地震


東京かなり揺れましたね。

気づかってくれる。
遠くの友へ、

僕は無事です。

まるで
海の上のフェリーに乗ってるみたいだった。
昔、京都で関西大震災を味わったけど、
あの時よりも揺れたような感じ、

コンビニにはパンと
おむすびが
無くなってる。

高層ビルは、
いつもより光ってる。
電気などのライフラインは無事。
余震はまだ続いてる。

部屋は色んな物が倒れて、
めちゃくちゃ。