2011年3月29日火曜日

のっぺらぼう


とても幼い頃に見た夢を私は忘れれない。

仲のいい友達といつものように遊んでいる夢だった。
途中でこれは夢だと気付いた私は、
私という肉体からの乖離を試み、
離脱し、
それに成功した。
そして私は私の顔を見た。
見てみたかったのだ。
自分がどんな顔なのか?

絶叫しながら目を覚ました。
泣いていた。

夢の中の私の顔は『のっぺらぼう』だったのだ。


夢、幻想、パラレールワールド、

私達の住んでいる世界を3次元と呼称し、
漫画や絵本や図面などは2次元と呼ばれている、
数学的な一般の意味での空間らしいが、
はっきり言って私はバカなので詳しい事は解らない。
架空の物語を総じて2次元と呼び、
これは呼んでいるだけだ。
世間一般で理解しやすいように、
共通の言葉でお喋りするために。
他人が3次元を3次元として理解しているかも怪しいのに、
3次元や4次元を相互理解しようなんておかしな話だ。
そんな話をしている私自身ですら空間を正しく認識しているかといえば、
はっきり言って、ちっとも理解していない。
だから騙されてはいけない。
私などに決して騙されてはいけない。

まあ2次元を架空の世界ととらえての話で、
「2次元のキャラクターにしか興味を持たない」と自らを呼称する人物も世の中には居る。
かの言う私も思春期時代はそうだった。
アニメのキャラクターに恋をしていた。
いや本当は、それは偽装で自分の恋を周囲にバラしたくなかったから、
2次元キャラに惚れているフリを続けていたのだが。
今日はその話ではないので、
まあ機会があれば私の恋の話もいつかしよう。

架空のキャラや設定を2次元的と呼称する。
しかし空間を歪めて物体や空間が存在し歪められ、
互いに相対的に影響しあうなら、
2次元と呼ばれる存在も、やはり3次元的な意味合いを持つのではなかろうか?
タンスの上の段を閉めれば、下の段が開いてしまうように、
空間で私達は密接に繋がっている。

私の幻想や妄想や心の声は、
そのほとんどが活字でできている。
これには個人差があって人によっては映像的だったりするらしい。
私の場合は言葉であり声だ。
焦げ臭い匂いなどに、わざわざ色んな擬音めいた声をつける。
それは言葉のアクセントに抑揚を持ったメロディー的である。
誰にも伝わらないであろう擬音が自分の内にあふれる。
それから誰かと共鳴したくて共通の言語を探す。
焦げ臭い匂いは、
パンを焼くような香ばしい匂いなのか?
火事の現場のような嫌悪感あふれる危険性をともなう匂いなのか?
ほんのりと漂う生活の搾りかすのような、新聞紙3枚程度を焦がした匂いなのか?
煙草の煙なのか?
コーヒー豆を炒った時のような匂いか?
そのどれにも該当しない匂い?
該当しない、
目を背けたくなるような匂い。
目を背けて無かった事にしたくなるような匂い。
目を背け問題を先送りにして平静を取り繕い無感情に無表情に、
やり過ごしたくなる匂い。

気持ち悪い匂い。

唐突だが、

いい人と云うのが居る。
誰の前でも臆面なく善行ができる人。
倫理的に申し分のない行動ができる人。
周囲の人に憐憫の情をいだき。
被災にあう人を自らの手で助けようとする人。
その精神は立派なのだ。
立派すぎて誰も悪く言えない。
いい人がいい事をする計算は完璧だ。
周りに有無を言わせはしない。
いい人はいい事をしているので己の行為に罪悪感を持たない。
罪悪感に苛まれ、
夜を眠らず過ごす事はない。
やけ酒でうさを晴らそうとも思わない。
恋に悩んでも失恋をしても3度の食事を平気でとれる。
友達も平気で裏切れる。
心の底で誰にも感謝しない。
口癖は「ありがとう」「ごめんなさい」
これは口癖だ。
ルーティンワーク。
誰かに嫉妬する事もない。
だって自分はいい事をしているのだから。
いや嫉妬を表には出さないのだ。
包み隠す、
無かった事にする。
背を向ける。
今やルサンチマンは現代においてスタンダードだ。
隠した嫉妬は病となって自身の身体を蝕む。
そして、
それを自分を取り巻く環境のせいにする。
そして環境をよくしようと、
またいい事をする。

いい人が自分がいい人だと云う事がバレてしまうと、
大変なリスクがあると云う事を、
いい人は知っているだろうか?

今さら当たり前だが行為にはリスクがあり代償があり罪がある。
生きる事は食す事で命を奪う事だ。

世の中の人は悪い人を気取る。
思春期に悪さを習得する。
悪く見えるように努力する。
線引きをする。
無関心を装う。
壁をつくる。
ちょい悪オヤジなんて言葉も少し昔に流行った。
小悪魔だとか悪女だとか、
悪を気取るのに不自由はない。
本当に悪いヤツでなければ見ようによっては可愛いじゃないか?

いい事をする時は隠れて行う。
バレないように、いい事を行う。
いい人だとバレてはいけない。
バレる訳にはいかない。
いい人だとバレては、
つけ込まれ、詐欺にあい、犯され、担保にされる。
『嫌われ松子の一生』のように、
自分の愛した者に殺される。

それでも愛さずにはやってられないのだから、
なんという不器用だろう?

松子は神だ。

余談だが『嫌われ松子の一生』の映画において、
一番ルックスのいい人物が一番酷い醜い死に方をする。
不格好で醜い死に方をする。
私なら「そんな役やりたくねー」なんて思う役所だ。
しかし目を背ける訳にもいかないだろう。
彼は一番ルックスがいい。
ルックスがいいから、
あの映画ではあの役なのだ。
残念ながら彼の他の作品や活躍を知らない私ではあるが、
他の物語なら、きっといい役を貰えただろう。

まあ松子はいい人などでは決してない。
だって愛そうとしただけなんだから。
いい事なんてしていない。
誰かと居る方が一人で居るよりもマシだと思っただけなんだから。

「生まれて来てごめんなさい」

そんな言葉をいい人が吐くだろうか?
そんな言葉を壁いっぱいに刻むだろうか?
その言葉は自らの肉体を深くエグっている。

いやしかし
いい人は意外にも計算高く日記などに書き留めるかもしれない。
いい人は、
誰よりも偽装の上手いエイリアンだ。

しかし都合のいい人で言えば、
どうだろう?
悪意ある存在から見れば、
利用しやすいと云う点で、
愛したい人もいい人も似たような末路を辿りそうに思うのだが?

いい人で居る事は危険極まりないのだ。

いい人と愛したい人の違いはこうだ。
いい人は誰にでもいい人であり、
同時に誰からもいい人に観られ、
誰か特定の人を愛する事がなければ、
誰か特定の人から愛される事もない。
全ての人に均等にいい事をしようとするから、
全ての人から疎まれる。
誰も愛していない。
誰からも愛されない。
誰とも共に生きない。
誰とも共に死なない。
誰にも共感できない。

そして誰からも愛されたい。

愛する人の事は残念ながら私ごときには語れない、
違いを表明すると言っておいて、
大変失礼な話だが、
愛する人とは松子などのような神のごとき人を言うのだろうとしか、
私には語れない。

いい人は孤独死により近く。
いい人は隣人を殺戮する可能性がより高い。
自分の独善性を証明するための悪事を、
いい人は悪事とは認めない。
倫理感との矛盾は究極解消されず。
自己を苛むのは倫理観との葛藤だが罪悪感という点では、まったく問題がない。
だって社会的にいい人に観られたいのだから、
言い訳を探す方に必死で、
罪になんて目を背けるに決まっている。
社会的な責務で監獄での生活はできても、
監獄生活を自分の受けた災難だと感じるだろう。
あくまでも、
いい人にとって自分とは被害者なのだ。

いい人に罪悪感はない。

ところで、
世界に起きる被災が自分とは無関係だと言えるだろうか?
戦争、飢餓、大地震、強盗、ハイジャック、大恐慌、宇宙探索、遺伝子改造、彗星の激突、引き蘢り、ニート、難民問題
目を背けたくなる事態。
背けても、背けても目の前に現れる現実。

当たり前だが、
アスファルトの上を歩いている。
電気を使っている。
魚を食べている。
調理にガスも使う。
家賃を払う時に紙幣を使い、銀行のATMを利用する。
世界と無関係で居れる筈がない。

戦争がたえない理由なんて、
もう解っているでしょう?

戦争のアニメやゲームがたえない理由も?

いちいち私など小市民以下のバカが語る事でもない。

目を背けても、
妄想の中に逃避しても、
誰の身にでもふりかかる。
避けようのない衝動なのだから。
とある女性が身を売るように?
とある男性は戦争に?
空間が空白を埋めるように。

戦争と自分が無関係なはずがない。

無関係だと言うならば、
どうか私に退屈に耐えれる方法を教えてほしい。

いい人になると云う事は、
目を背ける事なのかもしれない。
自分から目を背ける事かもしれない。
自分の行為に目を背ける事かもしれない。
自分の嫉妬から目を背け。
自分の失恋から目を背け。
自分の死から目を背け。
死から背けば、
生からも目を背け。
確固として、いい人であり続ける。

独善的欺瞞

自分のキャラクターを持たない。
自分のペルソナを持たない。
自分の名前を伏せれば、どんな悪態でもつける、どんな中傷でも吐ける。
自分の顔を持たない。


『のっぺらぼう』


絶叫して目を覚ますなら今なんだな?
と思う今日この頃であった。

ちなみに、
のっぺらぼうの物語。

ムジナが顔のないお面をつけて人間を驚かせただけなんだってさ?