広島の市内で原爆の直撃にあい亡くなった。
その後に私の祖母は未亡人となり、
嫁ぎ先の祖父の実家でしばらく幼い父と暮らした。
やがて実家に身の置き場をなくしてしまった祖母は、
別の家に嫁ぐ事となり、
次の家に幼い父を連れて行く事ができず、
父は私の曾祖父が引き取り、
母子は離れ離れになった。
祖母の嫁ぎ先の姑さんは、地域でも有名な鬼ババアで、
何人かの嫁が嫁いでは執拗な嫁いびりにあい逃げ出していたそうだ。
祖母が嫁いだ時に近所では、
「次のお嫁さんは、何日もつことか」
と噂されたそうだ。
私の祖母は嫁いびりにも我慢強く耐え、
二人の子供をもうけた。
何故そんなに耐えれたのか?と私が祖母に質問したときに、
祖母はニコニコして、夫がとても優しかったからと、のろけていた。
とても仲の良い夫婦で命の閉じるその時まで夫婦の縁は続いた。
祖母の家は広島県の山奥の田んぼだらけの小山の中腹にあり、
大きな池で鯉を養殖していた。
祖母の旦那さんが奇麗な鯉を指差し、「あれは50万円で売れる」
と言っていた。
売れない鯉は小さな内にまびかれていた。
この夫婦は早朝から晩まで、よく働いていた。
家は藁葺き屋根の日本家屋で、とてもいい匂いがしていて、
お風呂は釜だった。
釜風呂は薪で炊き、本当に暖かい風呂だった。
家の離れに蔵があり、
その蔵の中に私の父の写真の入ったアルバムが隠されるように入っていた。
青い空に大きな入道雲の下で、
アブラゼミの鳴く音の聞こえる陽の当たる縁側に、
私と祖母は二人きりで座り、
祖母はアルバムをゆっくりと捲り、
私に見せてくれた。
父を育ててくれた私の曾祖父から送ってもらった写真だそうだ。
私の父は私を生んでから半年で、この世を去ったので私は父の事をよく知らなかった。
アルバムを捲りながら、
私の知らない父の出生から死に至るまでの話を私は祖母から又聞きで聞いた。
私は生前の父の事を知る多くの方から父の話を聞かされたが、
みな口をそろえて私の父は真面目で優しい方だった。
と語っていた。
祖母の見せてくれた父の少年時代の写真の父がワンパクそうなガキんちょだったので、
なにか凄く安心している自分を私は私の中に発見していた。
坂口安吾が堕落論でいう通り日本人の本質は過去を流し去るようにできているらしい。
その流されやすい精神を武士道などで厳しく律していたのだそうだ。
忘れてはならない事をくり返し、くり返し自分に唱えたそうだ。
8月6日、
世界が平和でありますように、
黙祷。