2011年8月3日水曜日

深層心理の言葉


相手を打ちのめそうとして、
戦うという事は、
相手のステージに立つと云う事になる。

人間は深層心理では、
なんでもかんでも一人称でしか受けとれないそうだ。
どういう事か?というと、
脳みそで考えている事とか、心に浮かんでくる事とかいう表層的な意識よりも、
もっと深い自分でも見えない自分の内(なか)の奥底で、
なんでもかんでも自分の事として受けとってしまう。
という事だそうだ。
その奥底の自分が今現在の自分を取り巻く環境を決定しているそうだ。
例えば、
誰かを「あいつはケチだ。」と批判すれば、
私の深層心理は「私はケチだ。」と解釈するらしい。
誰かを「あいつは五月蝿い(うるさい)。」と批判すれば、
私の深層心理は「私は五月蝿い。」と解釈するらしい。
「みんな我侭ばっかり。」と批判すれば、
深層心理は「私は我侭だ。」と解釈するらしい。

この深層心理の話を聞いた時に私は、
世の中から「貧困」という言葉がなくなれば世界は豊かになれるのでは?と考えた事があるが、
この考えは、「他人の不幸は蜜の味」という言葉によって打ちのめされた。
私はほんの一時の快楽である「蜜」を得るために貧困という言葉を使うようだ。

批判する言葉というのは全て退行している。
その場に留まって、何一つ前進できない言葉だ。
「いつか彼にも解るさ。」と現状に甘んじる言葉だ。
いつ来るとも解らない時を永久に待っている言葉だ。
肉体は時間と共に進行するのに、心や魂や脳みそが「ここに留まりたいよー。」といつまでも幼いままで、乳を求める赤ちゃん言葉だ。
批判をすればするほど幼児化してしまうのだ。

ニーチェは「神は死んだ、真実は創るものである。」
と言っている。
真実とは前進するものだ。という事だ。
真実の前進という事は具体的な行為を促す(うながす)事だ。
「あいつはケチだ。」では前進できないのは自身がケチに留まっているからで、
自身は自身の豊かさを示さなければ言葉は前進しない。
こんな時はマザーテレサの言葉なんかはどうだろう?
「わかちあいましょう。」
マザーの言葉には前進する言葉が豊富にある。
ケチでは残念ながら通じない、どうしても通じない。
ケチだからどうしてほしいのか?
自分はどうしたいのか?
具体的に相手には伝わらないのだ。
「そのくらい察してくれ。」などと言ってみても、
察してほしいのは自分の都合でしかないのだ。
自分の都合で世界が前進するなら、この世界には一人の人物しかいない事になってしまう。
過去に生きた人も今現在に生きている人もいない、自分だけの世界。
自分の都合で他人の命を奪う殺人狂と何処が違うのだろう?
もしも好きな人がいるなら「好き。」と伝えなければ前進しない。
もしもキスしてほしいなら「キスがしたい。」と伝えなければ前進しない。

我々人類の精神には「他人の不幸は蜜の味」という毒素がまじっているらしい。
しかし未だに我々は他者を理解してはいない。
この人類でいったい誰が幸せなのか?
相手の幸福や不幸を自分の内(なか)で勝手に決めつけ、思い込み、相手に押しつけ、
同じステージに立たせて戦いを挑む。
そしてステージの上には依存し合った者が蜜の味を求めて、お互いにお互いを食いつぶそうと企む。
ルサンチマンとナルシズムの発露(はつろ)だ。

「蜜」は個人の主観的な妄想であり客観的な現実には存在しない、
煮ても焼いても食えない、
実際には何処にもないものだ。
真実ではないものだ。
真実ではないものに、どう他者が共感できるだろうか?
真実なしで、心と心を繋げる事がどうしてできるだろうか?
実際に目の前に映し出されるものは両者の依存関係だ。
ルサンチマンとナルシズムの発露(はつろ)だ。
その両者は、
私は私が好きであり、
相手は相手が好きである。と云う関係にある。
好きと好きでプラスマイナスゼロである。
なんにもない。
なんにもないが、そこには体温がある。
ぬくもりが存在する。
ぬくもりとは生命(いのち)である。


ある人にこんな質問をした事がある。
「人間はどうして戦争をするのですか?」
彼は即答した。
「退屈だからだ。」