2011年10月27日木曜日

世界のドアの鍵

私は、ある人の撮った写真や書いた文章を眺めると心が満たされる。
腹の底から安心する。
その感じ方がなんであるか?
意識して自分の意識を追いかけてみる。
追いかけて自己との統一をなそうとする。

そのように幸せいっぱいの精神状態の時であろうと、
だれかのボヤく暗い言葉などは、
私の視界に煙をふきかける。
吹きかけずにはいられない欲望が人にはあるようだ。
そうして完璧な世界は完璧にバランスをとっている。

私は、その人の撮った写真や書いた文章から何を感じて、こうも満たされるのか?
昨日話した無価値感からの派生した感情であるか?
はたまた、もう一つの罪悪感からの派生であるか?

いずれにせよ、私の器の根底には「さみしさ」がデンと腰をおろし、
その「さみしさ」が無価値感と罪悪感の2つのアンテナでリアルに対する臨場感を味わい自分勝手な解釈で自己をバラバラに切り刻んでいる事は確かだ。
まさに感傷と言う言葉がしっくりくる。
観賞し干渉して感傷を抱くわけだ。
くだらない駄洒落のごとく、まったくもって、くだらない。
人間は感傷にひたる方向に進めば進む程に自己から遠ざかる。

自己から遠ざかった自分は他者との繋がりを求める。
寂しさを根本に置き自分に価値を添加するために他者の評価を必要とする。

また恋をしてセックスをする、と云う事に何らかの自分勝手な意味付けをするのは、
罪悪感というアンテナが元に立っている。
罪の意識がセックスを破廉恥なものに陥れる。
罪悪感は自己の外部である世界に干渉しレイプし意味をつけ臨場感を味わう。
ここでハッキリ言っておくが、
下心のある者が下心を生み出しているのだ。
下心を感じる者に下心は宿るのである。
下心はゲスの勘ぐりとは、真実の言葉である。

繋がりたいという心は、すなわち下心になる。
その下心に罪悪感を感じるから、人はそこに臨場感を感じて快感を得る。

私はこの2つのアンテナで感じる臨場感は偽物であると感じる。
偽物では心は満たされない。
絵に描いた餅を食っても腹が満たされないのと同じだと感じる。

私が、その人の写真と文章を観て感じた安らぎとは、
本物に出会った時の感動のように思う。
絶対中立の現実のその人の生命をそこに感じる。

わたしはきっと、ありのままのその人の事が好きなのである。

世界のドアの鍵が開いた。
そんな気がする今日このごろ。