オードは詩、
ふたつは、混ざり合って、
メロディーになる。
目を閉じて耳だけで感じているだけでは、
分らない事が沢山ある。
詩情は風土と共に生き、
空気や食べ物を摂取し排泄する肉体を通じて、
リズムを含みグルーブしながら、
空間を歪ませ人から人へ伝わってゆく。
リズムやグルーブを言葉で説明しようとするのは不可能に近いのではないかとすら思う。
それはリズムの概念をなす時間自体が人間の観念で作ったものだからだ。
人は言葉と行為で二重の生活をしている。
幻想の自分と真実の自分の生活だ。
リズムは動き、
空間を歪ませて伝わる波だ。
自然なリズムは丸く円を描いている。
それは、
太陽が丸くて、
太陽の周りの空間が丸く歪んでいて、
その歪みによって引力とは関係なく地球が回転しているからだ。
太陽の影響下で存在は存在に電波し、
生活空間を含む宇宙空間が丸く歪んでいる。
しかしその説明も、
丸いリズムを言葉で説明できないのだから虚しい。
それに詩情を説明するほど、
野暮ったい事もないだろう、
その人が見てそう感じた。
それが詩情なのだから。
説明できなくても在るものは在る。
無いと思っている所にも空間がある。
宗教観で言う無についても、
無は無いのではなく、
無が在るという事だろう。
リズムは言語をこえている。
詩情はそのリズムも内包する。
言語と言語をこえたものとの融合だ。
世界に背を向けず、
音楽と対峙してゆくには、
どうしたらいいかな?
明確な答えなんかないんだ。
わかっているつもりでも、
私は自分を知らないし、
愛も知らない、
答えがないくてもやるんだ。
すでに何もかも始まっている。