2011年8月4日木曜日

2011年8月3日水曜日

深層心理の言葉


相手を打ちのめそうとして、
戦うという事は、
相手のステージに立つと云う事になる。

人間は深層心理では、
なんでもかんでも一人称でしか受けとれないそうだ。
どういう事か?というと、
脳みそで考えている事とか、心に浮かんでくる事とかいう表層的な意識よりも、
もっと深い自分でも見えない自分の内(なか)の奥底で、
なんでもかんでも自分の事として受けとってしまう。
という事だそうだ。
その奥底の自分が今現在の自分を取り巻く環境を決定しているそうだ。
例えば、
誰かを「あいつはケチだ。」と批判すれば、
私の深層心理は「私はケチだ。」と解釈するらしい。
誰かを「あいつは五月蝿い(うるさい)。」と批判すれば、
私の深層心理は「私は五月蝿い。」と解釈するらしい。
「みんな我侭ばっかり。」と批判すれば、
深層心理は「私は我侭だ。」と解釈するらしい。

この深層心理の話を聞いた時に私は、
世の中から「貧困」という言葉がなくなれば世界は豊かになれるのでは?と考えた事があるが、
この考えは、「他人の不幸は蜜の味」という言葉によって打ちのめされた。
私はほんの一時の快楽である「蜜」を得るために貧困という言葉を使うようだ。

批判する言葉というのは全て退行している。
その場に留まって、何一つ前進できない言葉だ。
「いつか彼にも解るさ。」と現状に甘んじる言葉だ。
いつ来るとも解らない時を永久に待っている言葉だ。
肉体は時間と共に進行するのに、心や魂や脳みそが「ここに留まりたいよー。」といつまでも幼いままで、乳を求める赤ちゃん言葉だ。
批判をすればするほど幼児化してしまうのだ。

ニーチェは「神は死んだ、真実は創るものである。」
と言っている。
真実とは前進するものだ。という事だ。
真実の前進という事は具体的な行為を促す(うながす)事だ。
「あいつはケチだ。」では前進できないのは自身がケチに留まっているからで、
自身は自身の豊かさを示さなければ言葉は前進しない。
こんな時はマザーテレサの言葉なんかはどうだろう?
「わかちあいましょう。」
マザーの言葉には前進する言葉が豊富にある。
ケチでは残念ながら通じない、どうしても通じない。
ケチだからどうしてほしいのか?
自分はどうしたいのか?
具体的に相手には伝わらないのだ。
「そのくらい察してくれ。」などと言ってみても、
察してほしいのは自分の都合でしかないのだ。
自分の都合で世界が前進するなら、この世界には一人の人物しかいない事になってしまう。
過去に生きた人も今現在に生きている人もいない、自分だけの世界。
自分の都合で他人の命を奪う殺人狂と何処が違うのだろう?
もしも好きな人がいるなら「好き。」と伝えなければ前進しない。
もしもキスしてほしいなら「キスがしたい。」と伝えなければ前進しない。

我々人類の精神には「他人の不幸は蜜の味」という毒素がまじっているらしい。
しかし未だに我々は他者を理解してはいない。
この人類でいったい誰が幸せなのか?
相手の幸福や不幸を自分の内(なか)で勝手に決めつけ、思い込み、相手に押しつけ、
同じステージに立たせて戦いを挑む。
そしてステージの上には依存し合った者が蜜の味を求めて、お互いにお互いを食いつぶそうと企む。
ルサンチマンとナルシズムの発露(はつろ)だ。

「蜜」は個人の主観的な妄想であり客観的な現実には存在しない、
煮ても焼いても食えない、
実際には何処にもないものだ。
真実ではないものだ。
真実ではないものに、どう他者が共感できるだろうか?
真実なしで、心と心を繋げる事がどうしてできるだろうか?
実際に目の前に映し出されるものは両者の依存関係だ。
ルサンチマンとナルシズムの発露(はつろ)だ。
その両者は、
私は私が好きであり、
相手は相手が好きである。と云う関係にある。
好きと好きでプラスマイナスゼロである。
なんにもない。
なんにもないが、そこには体温がある。
ぬくもりが存在する。
ぬくもりとは生命(いのち)である。


ある人にこんな質問をした事がある。
「人間はどうして戦争をするのですか?」
と
彼は即答した。
「退屈だからだ。」

2011年8月1日月曜日

記憶喪失


その件にかんしましては、一切記憶にはございません。



記憶喪失になった事あるかな?

私はある。

一番凄かった記憶喪失は、
19歳の時に起きたもので、
衝撃すぎて逆に忘れられない出来事でした。
朝、自転車にまたがったと云う記憶から、その日の夕方に自宅で起きる所までの記憶がまったくないんです。
それで頭には大きなコブができてて、
友達からは「今日お前は変やったぞ」と電話がかかってきたりした。
あの日はなんだったのかな?

あとお酒を飲むと頻繁に記憶を失います。
だから、あんまり飲みたくないです。
大事な時を覚えておきたい。

私が見た幽霊も私の気絶も私の記憶喪失も、
証拠がないんですよね。
証明してくれる隣人もいないのです。
だから、
いくら私は見たとか経験したとか言っても、
他人には伝わらないんです。

2011年7月31日日曜日

気絶

気絶をしたことはあるかな?

私はある。
目の前が突然に歪んで、
頭の中がサーっと真っ白になって、
気持ち悪くなって、
意識を取り戻したら2時間が経過していた。

2011年7月29日金曜日

幽霊


幽霊を見た事あるかな?
私はある。

見えなくても、見えても、
それはそこに居たり、在ったりする。
見えるものだけが全てではなくて、
見えないものも全て、
きっと気付いていないだけ、
とても鈍感な自分が感じれていないだけ。

2011年4月27日水曜日

ヘレネス

日付変わりまして、
26日は代々木ラボでライブでした。
音源をアップしておいたので聞いていただければありがたいです。

38年間生きてきて誕生日にライブをしたのは始めてです。
昨日は久々に寝付けずに徹夜をしてライブして、今も寝付けずにパソコンの前でこの文章を書いています。
寝付けないと、
いったい今までどうやって寝ていたのか、
すっかり忘れてしまうのです。
さっぱり眠くないのです。

2011年4月15日金曜日

キミは一時の恥オレは一生の恥

夜中、
ライブが終わってからの帰路で、
10㎝程度のカエルに出会った。
大きいな?と思ったが、
かつて田舎で見たウシガエルと比べるとそうでもなかった。
路面に対して迷彩を施したカエルの身体はマダラ模様で、
路面からカエルの形だけが浮き出たという感じだった。
目の玉だけがキラキラと光っている。
私はその場にギターを置き、
カエルと向き合ってみた。
カエルも自分もたいして変わらない気がした。
闇夜にマダラのカエルと黒い薄手のコートの私。
ひょっとすると、
このまま自然に闇夜に溶け込めるのではないか?という錯覚。
私もやっぱり迷彩を施している。
できるだけ周囲から浮いてしまわないような服を選んで、
この身を包んでいる。

しかしカエルさん迷彩もいいが、
あんまりにも目立たなすぎて間違って誰かに踏みつけられはしないか?
「達者で」
と言って、その場を離れた。

うちの天井裏がガサゴソと五月蝿い。
どうやら去年どっかに旅だって行ったネズミが帰って来たらしい。
大地震の危険を察知して出掛けて行ったであろうネズミの帰還。
だとすると、
これは安全の知らせなのだろうか?
そういう自然の脅威に対する安堵の思いとは別に、
私の心は旧知の生物との再会に喜んでいる。
なにを喜んでいるのやら?
自分で自分が可笑しくなる。

愛情を向ける対象者を失った人は、
どうでもいい、とるに足らない物にでも、
自分の愛情を向けようとする。
と何かの本で読んだ事がある。

格闘ゲームで負けた人がゲームのコントローラーをぶん投げる様を何度か見た事があるが、
その行為に何の意味も解決策もない事を周囲の誰もが、そして本人さえも知っている。

私は怒りのあまり壁を殴った事がある。

映像の偶像に対して虚しい愛情をおぼえた事がある。

ちいさくって丸っこい物を見ると、可愛く思え警戒心を緩めてしまう事がある。


託卵において、
ホトトギスがウグイスに餌をもらいながら成長するのだが、
この時、
ウグイスは大きく開いた赤い口を見ると餌を与えたくなる本能に自身の身体を支配されホトトギスの子供に餌を与えると、
これまた何かの本で読んだ事がある。

昆虫や動物の世界は下手をすると人間世界よりも美しく多重的に感じる時がある。
人間世界からみたネズミと、
動物世界からみたネズミ。
天井裏の宇宙に耳をすます。